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『旅のジェネレーター』という新たな自分との遭「遇」。

本の話。
『ジェネレーター 学びと活動の生成』市川力+井庭崇著

久々に、”言葉にしてくれて、ありがとうございます!!”って本に出会ってしまった…。

その言葉とは、「ジェネレーター」。発電機のことではない。
創造的コラボレーションの担い手としての「ジェネレーター」だ

この著書では、ジェネレーターというタイトルの補足として、”学びと活動の生成”とある。市川力さんは、東京コミュニティスクール(TCS)の初代校長として、井庭崇さんは、慶應義塾大学SFC総合政策学部教授として、このジェネレーターという概念と出遭われている。著書のお二人が教育に携わっているからこそこのタイトル補足になっているのだと思う。(お二人には面識はないのですが、お二人がジェネレーターについて書かれているnoteを読んで、すでに親近感が湧いている。あとでシェアしたいと思う。)

この本を僕がどう読んだかというと、この本の”はじめに”でも書かれているように、ジェネレーターをひとつの”あり方”として捉えて、読んでいた。

「ジェネレーター」を理解しようとしたら、ジェネレーターは何をしているのかというdoingの次元ではなく、どう「ある」かというbeing、それも、常に生成し何かになろうとしているbecomingの姿を捉えていく必要があります。

ジェネレーターが自分をジェネレートし続けることで相手がジェネレートされ、逆に、ジェネレートしている相手から自分がジェネレートされ、アイデア・作品がジェネレートしてしまう。

ある個人がジェネレーターであることは、場にジェネレートされ、他者からジェネレートされ、やがて、すべてがジェネレートの渦の中に巻き込まれるということ。ジェネレーターがお互いが見つけたこと、思いついたことをひたすら語り合いながら、見えないなりゆきを追いかけてゆく道はそういうものなのです。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』市川力+井庭崇著 はじめにより

屋久島でガイドとして活動する僕も、キャンプなどの野外活動指導者として、学びの場を持つこともあるが、僕の活動のメインは、旅という場を創ること。

屋久島でガイドとして旅を創る僕としては、”旅と戯れの生成”として置き換えて、この本を読み進めた結果、自分が求めていた、かつすでに実践しはじめていた旅創りにおける自分の”あり方”が、まさにこのジェネレーターだったのだと気付いた。

ジェネレーターとはどんなあり方なのか?

著書から引用させてもらうと、
ジェネレーターは内側に入って、ともに活動する人だ。

「ジェネレーター」とは何かをわかりやすく言うと、一緒に参加して盛り上がりをつくる人だ。〈中略〉
「ジェネレーター」は、自分も活動や話し合いに一参加者として加わる。ファシリテーターは、何かに取り組んでいる人たちの「外側」にいて支援したり伴走したりするのであるが、「ジェネレーター」は、一緒にその取り組みのプロセスの「内側」(中)に入り、ともに活動する。ジェネレーターは、一緒に参加する場に降りるので、ファシリテーターとは違う立ち位置になる。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』市川力+井庭崇著

2022年4月に企画した『屋久島で生きると戯れる はじまりの旅』を振り返ってみても、僕は「旅のジェネレーター」として、旅人ともに3泊4日を過ごしていたと思う。

その旅の記憶はこちらから。

実は、この旅をはじめる前に、ともに旅を創った"あかりん"へは「あかりんがこの旅を楽しんでね!誰よりも生きると戯れてね!」というようなことをしつこいくらいに伝えていて、その時は、自分でも何でそのことにこだわっているんだろうと思いつつも、何か直感として、そう伝えなきゃと思って、伝えていた。そのことによって、旅の場が豊かになるだろうという予感がしていたのだ。

そして、「ジェネレーター」であり、ジェネレートしていくという概念を知った今、自分の言葉の真意は、旅人とともに”ジェネレート”して欲しいということだったんだと気付いた。

結果として、この旅は、自分が企画したどの旅よりもジェネレートしていたと思う。特に、「ヤクスギランド」の森散策は、ジェネレーターの森を散策するかのようであった。

ジェネレーターは、「散策」します。それは「何か」を探しているという意味では、「探索」と言うことができます。世界が差し出すものを見逃さない、真剣な眼差しと姿勢があります。しかし、あらかじめ決められた特定のものを探しているのではありません。落とした物を探すようなそういう探索ではないのです。そこに「何か」面白いもの・美しいもの・驚くべきものがあることを予感し、それを追い求めて歩きます。それは、これから出遭うものを感じることができるように、自分の感覚をひらき、感度を上げた散策です。だからこそ、何かを発見し、連想し、生成することができるのです。そういう意味での、可能性にひらかれた探索としての散策。これがジェネレーター散策なのです。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』市川力+井庭崇著 はじめにより

安房川でのカヤックであり、竹の子掘り体験であり、ヤクスギランドの森歩きであり、はちみつの養蜂場見学であり、旅の振り返りをした西部林道の森歩きであり、そして旅のあとに書かれた旅の記憶を綴った数々のnoteの生成であり…誰かひとりの生きると戯れるが、発見、連想、生成へとつながっていたと思う。まさに、ジェネレートの連続だった。

振り返ると、旅の創り手も旅人も、著書に書かれている、この実践をしていたなと思う。だからこそ、旅がジェネレートしていったのだと思う。

・世界が差し出すものを見逃さない、真剣な眼差しと姿勢
・「何か」面白いもの・美しいもの・驚くべきものがあることを予感する
・自分の感覚をひらき、感度を上げる

屋久島での旅を創る時、ジェネレートするのは、人間だけとは限らない。そこには、屋久島の樹木をはじめとした自然環境やそこに住むいきものたちも同じ”出来事”の中にあり、ともにジェネレートしていくのが、屋久島らしい「旅のジェネレーター」ではないかと今は思っている。

2022年。
どうやら僕は、「旅のジェネレーター」という新たな自分に遭「遇」してしまったようだ。

『ジェネレーター 学びと活動の生成』へのオマージュ。屋久島の森を背景に変えて。


最後に、著書お二人のnoteを紹介したいと思う。

**ご紹介**

この概念は、僕が屋久島へ移住する頃には生まれていたようだ。
井庭崇さんのnoteはこちら

市川力さんがジェネレーターを語っているnoteはこちら


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