【往復書簡】11通目(ジャッキーさん)

先日はありがとうございまいした!

偶然庚申の日(夜通し営業日)に東京に滞在することになり、これは行かねばとこの書簡を始めてからは初めての夜学バー訪問でしたが、日頃お店にこられている皆様と朝まで楽しく過ごせて大満足でした。

思いの外この往復書簡も認知されていて、とはいえ知ってるけど読んではいないと言う正直なお声もいただけて、そして何より日頃このお手紙でやりとりしているお話を実践されている現場を覗くことができたのが収穫でした。

これまでのやりとりで出てきた言葉を用いるならば、自分の世界を引っさげてお店の扉を開き、席に座り、ジャッキーさんや来られているお客さんが時折流す魚を眺めながら、ものすごく心地よく過ごしました。その場にいた全員が話題提供者の声に耳を傾けて、かといって一人が集中して話すわけではなく定期的に話者が入れ替わる様が美しかったです。その《美しさ》を今後の書簡のためにも少しでも分析しようと「考えながら、いる」ことに執着してしまい、一方で自ら魚を流す(お話する)のを少々サボってしまったので、もう少し自分の目に映る皆さんの世界を自分で美しくしようとすべきだったなあとちょっぴり反省です。

そんなこんなで店内であまり口数多くなく過ごしていたからか、その時夜学バーにいらっしゃった方から「実物は意外と寡黙なんですね」とのお言葉をいただきました。もちろん初めてお会いする方だったのですが、ありがたいことに書簡を知ってくださってたようで、その文章からもたらされるイメージと実物との乖離がどうやら凄かったのでしょう。それが面白くて、福岡に帰ってからもしばらくそのことを中心に考えていました。その辺について書ければと。

ジャッキーさんの文字量に比べるとまだまだ少ないのですが、それでも毎回ある程度の文字数を書いています。音読すると数分で終わるはずなんですが、それでも印象として数分間喋り続けるのに近いものを与えてしまう。だからこそ、「意外と」と言われるぐらいには《饒舌》に見えていたのかもしれません。また文字量だけじゃなく、感嘆符を多用することで《明るい(賑やかな)人》という印象を与えていたのかもしれない!

それが特に実際にあったことない人であれば、この文章だけでどんな人間かを判断することになるので、より一層実物とのギャップが大きくなる(誤解が生まれる)のかもしれません。日頃なんだか難しいことばかり書いていると、頭の固い(≒怖い)人のように見えてくるのもおんなじ。

これは推測ですが、例えば仮に《長い文章を書く人=饒舌》だと認識している人なんかは、おそらくその文章の中身は読んでおらず、ぱっと見の印象(視覚的に文字が多いと感じたことによって)だけで判断しているような気がします。スクロール回数が多いからなんだかたくさん喋ってるように見える。なんとなく漢字が多いから難しそうに見える。文章を読むのではなく、目に見えるヴィジュアルの情報だけでイメージを確定させている。なんてことが、あると思います。世の中で本を読めないと言われる方が増えているのもそれに影響しているのかもしれません。

ふつうの人は、「知らないこと」が目の前に現れたとき、まず「知っていること」で代用を効かせようとします。「知らないこと」を明らかにするのは面倒だから、「知っていること」にすり替えて、「わかった」ということにしてしまいます。その手抜きが誤解を生みます。

まさにこれ。その結果さまざまな「意外と」が生まれてしまう。それがポジティブな乖離であれば良いのでしょうが(意図的にそれを演出しているものもあるぐらいですし)、逆であればなんだか損をしたような気持ちになってしまいかねません。そうならないためにも面倒くさがらずに「知らないこと」を明らかにする努力が必要なのでしょうが一筋縄ではいかない。

よくわからないお店をやってるからなのかもしれませんが、「ひつじがはどんなお店ですか?」との質問を度々いただきます。お店にいるときだったら「ご覧の通りです」と答えられるものの、お店の外でそれを聞かれた時の上手い返しが未だ見つかりません。先日の夜学バーでもまさにそうでした。

真面目に返そうと思ったら、「本とお酒があるけど別に皆がみんな読んでるわけでも飲んでるわけでもなく絵を描いたりお喋りをしたりする人がいて就活生はエントリーシートを書いたり社会人の話を聞いたりなんかしてetcetcむにゃむにゃ……」とだらだら話し続けることになるのですが、それでも全てを網羅できているかどうかは正直自分にもわかりません。

なので、今はとりあえず「本はあるけど色んな過ごし方をしている人がいます」なんて触りだけを話して、興味を持って掘り下げてくれる人には細かくご返答をするようにしています。当然その段階で「へぇ…」で終わってしまうこともあるのですが、中には「それってこういう感じですか?」と何らかの代用をしながら問いかけてくださる方もいて、そこからは輪郭を埋めるように一緒に明らかにしていく段階に移ることもあります。

過去ひつじがを《図書館》で代用して考えてくれてるだろう人がいました。その人からは「本を読まなければいけないんですか?」という質問をいただいて、それに対して「読まない人もいますよ」とこちらが返す。また「中で喋ってもいいんですか?」との質問には「近くで本を読んでいる人がいたらボリュームには気遣ってもらいたいものの喋るのは大丈夫ですよ」と返す。

また、ひつじがを《バー》で代用して考えている人からは「お酒を飲めないけど行ってもいいですか?」や「未成年でも入れますか?」といった質問をいただいて、それに対してこちらも一つずつ返答してきました。

このようにご自身で代用されたイメージを頼りに、隙間を細かく埋めるように質問してくださる方との間では溝が生じにくい。一方で一足飛びに答えを求められると、ムムムと頭を捻ってしまいます。その極端な例が先に書いた「どんなお店ですか?」ですし、お店の話に限らずそんな風に一度で端的な答えを求める質問をしてこられる方は実際いらっしゃいます。

そのぐらいに世の中では《端的でわかりやすい》答えを求め、それ以外を考えない風潮が蔓延っているのだと思うし、書いている自分だって知らず知らずのうちにそうなっているかもしれません。くわばらくわばら。

見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ
静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ
『天体観測』BUMP OF CHICKEN

BUMP OF CHICKENが2001年に出した楽曲の歌詞が今更沁みます。見えているものだけで満足をしてしまって、その向こう側にある見えない部分に気を配ることついついサボってしまう。もしかしたらそこには今まで気づいてなかった小さな星が見つかるかもしれないし、それ以外の気づきがあるかもしれない。何も見つからずに無駄になってしまうかもしれないけど、それでも見ようとしなければ絶対に見えないし、聞こうとしなければ絶対に聞こえることはないでしょう。

星(求めるもの)の位置は今やインターネットでチョチョイのチョイで知ることができますが、それだと見えるものしか見なくなる。そこに何があるのかわからない中で、見えないものを探す姿勢が日々の余裕につながってくるでしょうし、望遠鏡を覗き込む人が増えていくと良いなあと思います。

そのためにも簡単に星の位置を教えるのではなく、覗き込んで自分で探す面白さを伝えるような場所でありたいし、「ひつじがはどんなお店?」という問いに対しても「見えないモノを覗き込むことを推奨するお店」と答えてみようかな……

余談ですが、夜学バー訪問時に拝見した某氏の卒論(夜学バー論)がものすごく面白かったです。まさに《望遠鏡をただ毎晩覗き込んだ》結晶ですね。あんな風に客観的に観測してもらえてるのは素直に羨ましい(ひつじがにもそういう学生がいたら…!)ですし、ジャッキーさんのジャーナル以外の切り口から夜学バーの日々が垣間見えて面白かったです。全部読み切ったことを驚かれたのですが、個人的には全部読むのが当たり前だと思っていたので驚かれたことに驚きました。書かれた方にも偶然お会いできてよかったですし、最終稿を読むのも楽しみにしてます。

一晩の訪問でこれでもかと言わんばかりに話題に富んだ夜だったのですが、いらっしゃった方から「書簡の文章に明るさが足りない!」とのご意見をいただいたような気がした(錯覚かもしれません)のも印象的でした。これも書きながらちょっぴり明るさを意識してみたものの、やはりポップに書くのは難儀ですね。修練修練。全国に数名いるとされる読者の皆様とその向こう側にいる見えない未来の読者数十名に向けて、今後も精進していきたく。引き続きお付き合いくださいませ。

今回あえてジャッキーさんへの問いを立てず、余白を残して筆を置かせていただきます。夜学バー訪問を踏まえて取り止めもなく書いたこちらのお手紙。どこを切り取って展開していただけるのかを楽しみにしながらボールお返しします!

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