【往復書簡】2通目(岩谷さん)

岩谷さま

お手紙をいただいてから一日半が経とうとしています。当たり前に呼吸をするのすらなんだかむずかしく感じてしまうような日が続きますが、深呼吸をするには良い機会とのんびりしています。先日はお引っ越し等でご多用の中、わざわざご挨拶にお越しいただきありがとうございました。

季節柄よくあるものかもしれませんがお別れの挨拶はさみしいものです。とはいえ今回よかった点が二つあります。一つは岩谷さんのお引っ越し先が「ちょっと遠いけど行けないことはない距離」だったこと(順番が前後しただけで意味合いが変わるのは不思議ですね)。それともう一つは(お引っ越しがきっかけになって)このお手紙のやりとりを始められたことです。

初めてご来店いただいてからおよそ一年の間、岩谷さんとはほぼ毎回なんらかの議論をしていたような気がします。ご来店されるたびにこちらの議題に乗っかってくださったり、逆に話題を持ってきていただけたり、気づけば「次は何を話そう」と来られる日を楽しみに待つようになりました。

その話に加わった県外のお客様からは「福岡は素養が高い」と並々ならぬ感想をいただき、また議論の様子をライブ配信してみるなどの試みも途中行うなど、もはや個人間の楽しみを超えて、みんなで考える良いきっかけになっていたような気がします。(手前味噌かもしれませんが……)

このお手紙も、日頃のお話と同じように話題を流転させながらざっくばらんにやりとりをしていきたく。その中で同じ福岡に暮らす人間として、お互いの景色を共有しながら、場や街のあり方について考えられたらなあとほんのり思っています。目的地がふわふわしているので一歩目をどこに置くのかさぞ難儀されたことでしょう。飲み込んで請け負っていただきありがとうございます。追随しつつ、たまに寄り道にもお誘いしますのでお付き合いください。

そうそう、本題に入る前に余談です。今回の申し出はこちらとしては物凄く恐る恐るお願いしたように記憶していたものの、岩谷さんのお手紙を読むとまるで「一狩いこうぜ!」と討伐に行くかのごとく宣っていたようで大変失礼しました。まあでもせっかくなので、お互いの武器(知恵)を使ってさまざまなモンスターをハンティングしにいきましょう。

シモダさんは意識して責任を内化や外化していることはありますか?僕はこの文章を通して、この話が行きつく先についての責任を外化しました。

さっそく手持ちの武器で戦えるか怪しい難敵が出てきました…!

例えばこのお手紙だって「うーん、難しいからこの話やめて昨日の晩御飯について書きますね!」と続けることもできる。おそらくそれが《自由》なんでしょう。でもそんな思い切ったことは僕にはできません。そう感じてしまうのにはきっと《責任》が関係してくるんだと思います。

もう少し丁寧に《責任》について紐解いていきますね。この場合、僕は誰に対して責任を負っているのか。まずは当然お手紙相手の岩谷さんに対して、外化してくれたものをきちんと内化しなければなるまいぞ(したいぞ)という責任を感じています。そして次にこのお手紙を読まれた第三者に対して、その時間を奪っておいて晩御飯の話をしても価値を提供できないなぁ……という責任を負っています。このお返事だって価値と言っていいのかどうか怪しいですが、少なくとも僕の昨日の晩御飯よりは意味はあるはずです。(なかったらさみしい)

このように、この短いお手紙だけでも岩谷さんや読者の方に対する責任を感じている(内化している)ので自由には書けない。自由に書いているように見えても、意識的に言葉は選んでいます。

でもそこで完全に責任を内化してしまったらどうなるか。何をどう言っても(書いても)それが相手の価値にならなかったらどうしよう……ましてやマイナスだったら……と思っていたら結局のところ何も言えなくなってしまう。なので、言いたいことを我慢しない(なるべく自由に発言する)ためにも適度に責任を外化する(他者に任せる)ことも必要でしょう。

負荷は内化に傾き過ぎれば自分にかかるし、外化に傾き過ぎれば他者にかかる。どちらが不快な思いをしても気持ちのいいものではありません。間でバランスよく保てている人が幸せそうに見えるのは岩谷さんのおっしゃる通りだと思います。

引用したご質問に対する答えですが、ここまでに書いたような責任の内化/外化は日常意識的におこなっています。自分がどこまで我慢できるのか(内化)と相手がどこまで受け止めてくれるのか(外化)の間でバランスを取っていて、その丁度いいところは、よほどのことがなければ向かい合う相手によって異なります

めちゃくちゃ自分が我慢強かったり(内化一辺倒)、逆にむちゃくちゃ相手がやさしかったり(外化一辺倒)であればあまり考えなくてもいいのですが、そんなケースは稀で、ふつうはみんなその間でふよふよとしているはず。どんなにやさしい人でも心の中ですんごく我慢してるのかもしれない。やさしい人ほど責任を外化すべきなのに、やさしいからそれができないのはなんだかもどかしいことです。

どうすればバランスよく保てるのか。

相手との関係において考えるなら、その相手がどこまで受け止めてくれるのかを想像し、あとはその相手を信頼するしかないのかなと思っています。現に岩谷さんが一通目で責任を「外化」してくださったのはこちらに対する信頼あってのものでしょうし、それはおそらく普段お店での会話などから生まれた信頼のはず。その外化が《期待》なのか《転嫁》なのかは行間を読むしかないのですが、僕は今回のパスを《期待》として受け取りました。この文章も最終的には岩谷さんに責任を外化するのを今予告しておきますが、書けば書くほどプレッシャーになってしまうようで恐れ多いです。(書きますが)

さらりとプレッシャーと書きましたが、責任を外化するということは少なからず相手にプレッシャーを与えています。なのでそれ自体他者との関係性を良好に保つためであれ、下手したらなんだか責任を押し付けあっているように見えるのもまた事実。お互いに信頼しあっているのであればそれも《期待》と受け止められるのかもしれませんが、誰とでもいきなりそんな距離感になれるわけでもありません。

その中で他者との関係性を楽にするためには多少の《無責任》も場合によって必要になってくるのでしょうが、他者に対して無責任であるのは責任を持つ以上にむずかしい(バランスを崩しやすい)ことだと思います。今は特に。

ただ無責任が必要ですと言うのもあまりに無責任なので少しばかり補足しますが、他者との関係を良好に保つための無責任には必ずその相手に対する《やさしさ》がセットでついてこなければなりません。相手のことを思っている時点でもうそれは無責任ではないのかもしれませんが、その辺は考え出すときりがないので一旦ぼやかします。同じ無責任でもそこにやさしさが付随したら《お節介》になるし、しなければそれはただの《迷惑》でむしろ関係性を壊してしまいかねない。

その線引きをしている《やさしさ》は極めて曖昧なもので、かつその判断は原則受け手側に委ねられているのでむずかしい。むずかしいのですが、これもまた相手のことを想像して信頼する他ありません。

僕は普段お店にいるので、まだその特性上(不特定の方が隣り合って同じ時間を過ごすので)お節介を厭わない方々(する側もされる側も)と接する機会がそこそこあります。大変ありがたいことなのですが、一歩お店の外に出たらどうなのでしょうか。岩谷さんの周りでそういう第三者に対するお節介を見ることはありますか?

宣言通り責任を再度外化させていただきますので、荷ほどきの合間に気分転換がてらお相手いただけますと幸いです!

2020.3.31
シモダヨウヘイ

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