見出し画像

小さな自治体

42年前の農協職員時代。新卒男子は全員が飼肥料の配達要員だった。当時の磯山八左ヱ門組合長の方針と聞いた。後に理由は判明するが、組合員の顔と名前を覚えることが主目的。お茶を出してくれるオタクは先輩方が覚えていて、ルートをお茶の時間に合わせることも学んだ。当時の皆さんは過半が物故者。もう、村内を歩いても全然わからないけど。組合員の家庭を知り、姿勢を知ることが後の仕事に随分と役にたったことを覚えている。窓口の女性職員の皆さんも組合員の名前は覚えていた。売上伝票を切る際も名前も聞かない皆さんが過半。仕事の出来る女性職員の皆さんは、積極的に配達の車に同乗してたっけ? その支所も今は廃止されてるし、飼肥料の配達も外注さんのようだ。農協も事業会社ゆえ、利益の出ない支所事業に人は割けないんだろうね。

役所の窓口で名前や屋号が飛び交う村役場が好き!

コンサル時代。受注可能な自治体を訪問する際は、必ず事前に入って一回りしていた。多い日は3日もさりげなく、全域を歩き回った。住民との会話でその町の行政の姿勢は概ね認識できる。最良は、住民課の窓口に座ること。一時間も座っていれば、ここからも行政の姿勢が透けて見える。50近い自治体巡りの中で、ここは容易で無いなあと感じた町が2つある。東北の人口三万人の町と北陸の人口5万人以上の町。前者は二度驚かされた。町民課の窓口に座って居られるのはベテランの女性職員が多数。過半の町民を名前で呼んでいた。これには仰け反った。合併前の下妻市の人口とほぼ同じ。もう一点。30分も経たないうちに、係の方から声を掛けられた。何かお困りでしょうか?と。思わず、嘘をついた。日にちを間違えて訪問してしまったので、時間を潰してます!と。速攻で担当課長に案内されてしまったのには閉口したが、事情を話すと、そのまま数名に声を掛けてくれて食堂に案内され、翌日の打ち合わせがスムーズだった。北陸の町の窓口は、また異色。ネームプレートに旧町村名が描かれていた。後に知ったことだが、市長の発案だったらしい。ともすると機械的対応と処理に終始しがちな行政窓口。多少の効率は落ちても雑談の中から行政のヒントがある!と仰せだった。当然、窓口の皆さんは会話の中からのヒントを首長にあげていた。毎日数十通が市長に届き、市長はそれからヒントを得て政策に展開して居られた。むろん、大きな政策(マスタープラン)を実践し、その中に、自身の考えを挿入するのが役割であろうが、ボトムアップとトップダウンの使い分けの旨さ、見事さに舌を巻いた。お二人共、伺う都度、2~30分の時間を割いて世間話しをさせていただいた。東京の動きをとりわけ、喜んでくれていた。情報を持参し、披露するのが日課だったゆえ、以後、訪問前に箇条書きで中央官庁の動きや財界情報を持参した。お二人とも、引退して久しいが、首長当時の政策を個人や地域で実践しておられる。もう一点。首長経験者は叙勲の対象であるようだが、頑なに拒んで居られる様子。お二人とも華やかな舞台に立とうとしなかった。痛快です!

2月の峠




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?