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オーストラリアは美味しい(6)

オーストラリアの和牛


Wagyuは日本からの和牛にあらず

 2003~2004年頃だったと思う。レストランでメニューを見た時に「Wagyu」という言葉が目に入ってきたのは。当時の僕の認識は
「オーストラリア人は、肉本来のうまみを楽しむ人が多く、赤身の肉を好む傾向にある。しかもステーキなどは、レアよりもしっかり焼いたウエルダンに近い肉を好んでいる。」
 というものだった。実際、ステーキをオーダーする時に聞かれる焼き加減も、ミディアムレアでオーダーしても、しっかりミディアムに焼いて出されることが多かったし、その当時までサシの入った肉などを見かけることもなかったのだから。それがメニューに「Wagyu」である。しかも値段がベラボーに高かったと記憶している。
「オーストラリアまで来ているんだから、何も和牛をオーダーしなくてもいいな」
 そう思い、そのときは普通の、でも少しだけ高級なアンガスビーフのステーキを頼んだ。
 でも、どうしても「Wagyu」が気になった。
 オーストラリアには人口よりも多い約二千六四〇万頭(2018年調べ)の牛がいて、世界有数の牛肉輸出国となっている。マクドナルドやロッテリアなどの日本のファストフードのビーフパテはもちろん、すき家やなか卯などの牛丼の肉もオージービーフだ。基本的に大きな牧場で、牧草を餌としている(グラスフェッドという)ので、狂牛病などの心配がなく、世界で最も安全な牛肉のひとつとして知られているのがオージービーフ。しかも先にも述べたように、オージーは赤身好き、しっかり焼いた肉好き、という、僕個人の認識もあった。日本からまさか和牛を輸入しているとは思えなかったのだ。

 オーストラリア在住で、食に詳しい知人に、Wagyuについて尋ねてみた。
「まだ数は多くないが、オーストラリアで飼育している和牛のことだよ」
 そう教えてくれた。オーストラリアで育てられている和牛――興味をそそられる話題である。そこで調べてみることにした。

 日本で和牛と呼ばれるのは、日本原産の従来種に明治以降に外来種を交配させて品種改良した四種類の肉専用種(黒毛和種、褐毛和種、日本短角種、無角和種)のことをいうそうだ。中でも黒毛和種=黒毛和牛は全体の95%を占め、神戸牛や松阪牛、但馬牛などのブランド和牛は基本的にこの中に含まれている。日本でしか食べられなかった和牛だが、1975年に黒毛和種と褐色和種がそれぞれ二頭ずつアメリカに持ち込まれ、その後少ないながらも研究用に和牛がアメリカ向けに輸出され続けていた。そして1997~98年にかけて、128頭の和牛と、精液入り試験管一万三千本がアメリカに輸出され、日本式の飼育方法で育てられ、アメリカ産の和牛=Wagyuが誕生したのだ。なお1999年からは、和牛の遺伝資源保護を目的とし、日本から生体和牛の輸出は行われていない。

 オーストラリアには1990年代後半にアメリカから和牛が持ち込まれた。最初に持ち込まれた和牛の中には、日本からアメリカに渡り、その後オーストラリアへやってきた雌牛も含まれていた。当初の和牛は、赤身が主体のオーストラリアの牛と交配させ、肉質を向上させる目的で持ち込まれたらしい。しかし、一部のオーストラリア人富裕層は日本の和牛の味をよく知っており、神戸牛や松阪牛が好物だった。彼らのニーズも踏まえ、掛け合わせを行うことのない純血種も数は少ないが残ったのだ。

 少し古い2014年の統計だが、純血種、掛け合わせ種を含むオーストラリアの和牛の飼育頭数は約二五万頭で、そのうちの一割が純血種ということだ。これらの和牛は他のオーストラリアの放牧主体のアンガス種やヘレフォード種の肉牛とは異なり、肥育場で飼料を与えて飼育するフィードロットスタイルを用いている場合が多い。赤身肉に日本風のサシを入れるための工夫だ。実際見学に行ったわけではなく、あくまで調べた範囲ではあるが、西オーストラリア州のワイン産地マーガレットリバー地域の一部の牧場では、餌に赤ワインを混ぜているとか。まるでビールを飲ませる松坂牛のようだ。まあそれでも、マーガレットリバーの牧場ではマッサージまではしていないようではあるが……。

 オーストラリアの和牛の定義は、純血種から他品種との掛け合わせ(交配割合50%)まで五つのカテゴリーに分けられている。当然、純血種が高価でフルブラッド和牛と呼ばれる。なおオーストラリア国内でのWagyu人気を受けて、オーストラリア和牛協会も設立されている。ここではサシの入り具合を示す等級を、日本のMBSスケールを参考に独自にMS3~9+として設定。さらに毎年、フルブラッド和牛やサシの多く入った高級オーストラリア和牛のコンテストも行っている。
 蛇足だが、現在Wagyuと呼ばれる海外産和牛を産する国はオーストラリア、アメリカ、カナダ、スコットランドの四カ国。その中でもオーストラリアの飼育頭数は群を抜いており、東南アジアやヨーロッパなどへ積極的に海外輸出も行っている。

Wagyuの意味を知らないオーストラリア人

 数年前のシドニー中心部のある人気ステーキ店でのことだ。ステーキ店の名誉のためにここでは店名は控えておくが、ビジネスマンの利用者が多いシックな感じのするレストランで、店のウエイターたちもスーツ姿という結構な高級店である。そんな重厚な店内であっても、みんなわいわいがやがやと楽しげにおしゃべりしながら食事をしている。

 テーブルの担当になったのは若いウエイターだった。その彼に
「Wagyuってなんだか知っている?」
 と尋ねてみた。

 実はこの質問、これまでオーストラリアの人に何度かしたことがあった。知日派や日本人が多く住んでいる都市部・観光地の人、比較的裕福な人たちはともかく、それ以外の人の多くはWagyuが日本の牛であることを知らなかったのだ。よもやレストランのウエイターが知らないことはないのでは、と思ったけれど、答えは一緒だった(経験の浅いウエイターだったからかもしれないが……)。
「そんなの誰だって知っているさ。高級ビーフのブランド名だよ。メニューを見れば値段だってワンランク上でしょう」
「確かにそうなんだけど……。実はWaは日本、Gyuは牛っていう日本語で、つまりWagyuは日本の牛って言う意味なんだよ」
「えっ、そうなの。じゃあWagyuは日本由来の牛肉なのか。そいつはいいことを聞いた。今度お客さんに教えてあげるよ」
 オーストラリアでは、ここ何年かの間、急速にWagyuという言葉が広まった。最近では一部のスーパーでもオーストラリア和牛の取り扱いを始めている。しかし畜産家以外、その名前の本当の意味を気にする人はあまり多くない。もっとWagyu=和牛であると、一般のオーストラリア人に認識してもらえたらいいのに、と思わずにはいられない。

オーストラリア和牛を食べる

 難しい話しはともかく、要はオーストラリア和牛が美味しいかどうかだ。とにかく食べてみなくては始まらない。

 これまでさまざまな場所でオーストラリア和牛を食べているが、その中で「また食べに行きたいなぁ」と今も思い返すことができる、一皿のことを記そう。場所はオーストラリア有数のリゾート地ゴールドコースト中心部のサーファーズパラダイス。そのレストランは町の真ん中に建つヒルトン・サーファーズパラダイス2階にあった。もう5~6年前のことだが、当時オーストラリアのスターシェフのひとりルーク・マンガンが、ここでソルト・バイ・ルーク・マンガンというレストランを手がけていたのだ(現在は別のレストランに変わっている)。

 2000年代初頭、ルークが新進気鋭のシェフとしてシドニーのダーリングハーストでレストランを始めた頃から、僕は一皿ごとに新鮮な驚きを提供してくれる彼の料理のファンである。その後、スターシェフとして有名になるとシドニー・ヒルトンのメインダイニングとしてグラスブラッセリーを、また東京の丸の内にソルト(現在は閉店)を開業させるなど、積極的に系列レストランをオープンさせていった。当時のソルト・バイ・ルークマンガンもそうした流れでできたレストランだ。なお彼とは何度か話もしているのだが、僕のことをどうしても覚えてくれないのが、ちょっと残念ではある。

 僕が食べに行った当時のソルト・バイ・ルーク・マンガンは、ヒルトン・サーファーズパラダイスのメインダイニングだけあって、オープンキッチンスタイルでありながら雰囲気はとても落ち着いていた。ただリゾート地という土地柄、それほどかしこまって食事をするといった感じではない。いい意味でオーストラリアらしいファインダイニングだったのだ。
 前菜の「ヒラマサの刺身ショウガ、エシャロットのせ」をロバートシャノンワイン(クイーンズランド州グラニットベルト)のヴェルデホと一緒に楽しんだあと、お待ちかねのオーストラリア和牛だ。


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シンプルなステーキだが、それだけに肉の味がよく分かる

 オーストラリア和牛最大産地レンジャーバレー(ニューサウスウエールズ州)の和牛を使ったスコッチフィレのステーキ。ちなみにスコッチフィレ(あるいはリブアイと呼ばれることもある)とは日本でいうリブロースのことで、オーストラリアは日本でいうフィレ肉はアイフィレあるいはテンダーロインと呼ぶ。
 さすが高級レストランだけあって、ミディアムレアのオーダー通り、絶妙の火加減で焼かれた厚切り肉のステーキが運ばれてきた。

 ナイフを入れる。柔らかくてすっと切れ、中から肉汁が染み出てくる。一般的なオージービーフステーキのように、ナイフを何度も前後に動かす必要がない。驚くほどではないが、切った断面の赤身の肉の間にうっすらとサシが入っているのが見える。かみしめると柔らかく、肉のうまみ、甘みが肉汁と一緒に味わえる。300グラムのステーキだが、あっという間に食べきってしまった。まったくしつこさがないので、たぶん日本の高級和牛ほど多くのサシが入っていないのだろう。たくさん肉を食べる赤身好きのオージーの味覚に合わせ、適度なサシ加減を考えて作られている和牛なのだと思う。この時はペッパーツリー(ニューサウスウエールズ州ハンターバレー)のシラーズを合わせて見たのだが、フルボディのしっかりした味わいのワインとオーストラリア和牛のステーキとの相性もなかなかよかった。

 ソルト・バイ・ルーク・マンガン以外のレストランでも、ステーキで、あるいは日本風焼き肉でオーストラリア和牛を何度も味わってきた。店によって、あるいは値段によってサシの入り具合は違うが、それでもたいていは柔らかく、甘みがあって、食後は満足感に浸ることができる。そしてその度に思うことがある。

「もっと安かったら、もっとたくさん食べるのに」と。

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