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「ジェンドリン哲学」登山ガイド(1):巨人の肩に登りづらい3つの要因

「山の日」ということで、ジェンドリン哲学についてここのところ考えていることを、登山に見立てて連載形式(不定期)で書き進めていきたいと思います。また長くなってしまいましたが、よろしければお付き合いください。

 はじめに:巨人の肩の上に立つ

「巨人の肩の上に立つ(Standing on the shoulders of giants)」という言い回しがある。先人の発見や知見を礎として、現在の学的な仕事が成り立つことを強調する際のに使われるメタファーだ。かのアイザック・ニュートンが、論敵フックへの手紙の中で用いたことで有名だが、どうももっと古くから知られていた西洋の格言のようである。

最近だと、学術文献の検索エンジン「Google Scholar」のホーム画面に「巨人の肩の上に立つ」というこの文言が載っているので、そこで学生諸氏にはおなじみかもしれない。あるいは、著作権を守ることや引用文献を示すことの重要性を論じる際に、よく引き合いに出されたりもする。

たまに誤解されてしまうけれども、決して「巨人の肩を借りるみたいなズルをせず、自分の足で歩け!」みたいなお説教の文言ではない。先人たちが残してくれたこれまでの研究成果の上に、自分たちの研究が成り立っている。だからこそ、私たちはその力を借りて、はるか遠くまで見渡すことができる。そういった学問という営みの本質を示す言葉である。

ジェンドリンという「巨人」


自分が主な研究対象としている、哲学者で心理療法家のユージン・ジェンドリンもまた、たくさんの先人=巨人たちの肩の上に立つことで、自身の理論と実践を発展させてきた。ディルタイ、フッサール、ハイデガーらの大陸の解釈学や現象学の巨人たちの知見、デューイらのアメリカ・プラグマティズムの系譜、そして心理臨床の巨人ロジャーズとの心理療法実践の研究を”踏まえ”、独自の哲学である『プロセスモデル』や、セルフヘルプ技法としても知られる「フォーカシング」が生まれた。

そしてもちろん僕にとっては、ジェンドリンその人も紛れもない「巨人」だ。フォーカシング実践の研究のみならず、身体と環境の相互作用、状況についての精密な理解、言語の創造的機能に関する哲学的な知見についての研究を、遅々たる歩みながら進めている。

ジェンドリン哲学の研究をしている身として、明確に言えることがある。そしてきっと、多くのジェンドリンの研究者やフォーカシングを学んでいる方々が同意してくれるだろうとも思う。

それは「ジェンドリンという”巨人の肩”の上へは、とっても登りにくい」ということだ。

ジェンドリンという"巨人の肩"めちゃめちゃ登りにくい説


ジェンドリンという”巨人の肩”は、どうしてこんなにも登りづらいのか。フォーカシングを知り、学び始めたその時から、僕はずっとジェンドリン哲学の「壁面」にへばりついている。

ジェンドリンを読むという営みは、厳しい登山、ロッククライミングのようなものだ。その心は、一歩一歩のあゆみは重く遅く、頂上はいつまで経っても近づいてくれない。
離れてみているときは山頂が見えている気がする。ただ一旦、山に足を踏みれると、途端に視界は木々に遮られ、足場は悪く、歩みを慎重に運ばなければならない。一瞬、綺麗な景色が見えたような気がしてもと、山の天気は変わりやすく、すぐに暗雲が立ち込める。そしてようやく頂上かと思ったその先の遥か向こうに、実は本当の頂上があったりする。

本を読むことを登山やクライミングに喩えるなど、大袈裟だというように思われるかもしれない。「登山をなめるな!」のとお叱りの声も聞こえてきそうだ。ただ、理論書を読み進めることはとてもスリリングな体験でありながら、危険を孕んでいることでもある。道を外れて「遭難」することがあるからだ。

既存の登山ルートを離れることで、新しい発見をすることもあるかもしれない。もちろん、「創造的誤読」なんていう言い回しがあるように、正しい読みに囚われすぎることのデメリットを懸念されるかもしれない。理論や概念の怖いところは、その抽象度の高さから、いくらでも「誤解」ができてしまうことだ。先達のいない道なき道を行くのは、登山ではなくもはや「冒険」である。

ジェンドリン哲学という山に登ることで重要なことは、ジェンドリンという「巨人の肩」に登り、ジェンドリンが見ていた(であろうと思われる)同じ景色を眺めることにある。ルートを大きく外れたとしても、その人なりの発見があるかもしれない。ただ、それはジェンドリンという「巨人の肩の上」に立っているのとは違うだろう。

「ジェンドリンの哲学も勉強しようと思って読んだんだけど、わっかんないんだけど」というフォーカシングの実践家の方から年々質問されるようになってきた。関心を持ってくれる人が増えてきて、本当に嬉しい限りなのだけれど、ジェンドリンという「山」の怖さを、身を以て知ってきた人間として、皆さんの身を案じてあえて言えば、地図も持たず、装備・体力・体調も整わず、準備をしないまま「登山」に臨むのは、とてもお勧めできない。

このコロナ禍で、ソロキャンプやソロ登山の人気が高まっているけれど、一方で準備不足のまま山に入り、事故や遭難に合うケースが増えてきていると報道されている。特に多いのは「道迷い」だというが、僕らがやっている「巨人の肩」登山でも、同様の危険があると思う。

 「ジェンドリン哲学」 登山ガイド 試論


一般的に、哲学書や理論書を読むのには、登山と同様、かなりタフな、それも長期間に渡るトレーニングが必要である。そして経験者と一緒に山に登り、山での身体運用、登り方を学んでいく事になる。

ソロ読書なんていうと不思議な言い回しになるが、とかく哲学の専門書を読む際には、単独での読書は「遭難」の危険が高まるかもしれない。これは喩えではなく、本当に、自分がどこにいるのか、どうやったら引き返せるのかわからなくなってしまうことがある。

「結局、フェルトセンスってなんなんだろう?」「これまで自分がやってきたことは、本当にフォーカシングなのだろうか?」というように、これまでわかっていたことですら、わからなくなるのだ。まさにジェンリン哲学遭難である。こういったことは実際に起こるのだ。僕も何度も同じ目に逢ってきた。

そこで、僕らの経験や体力の不足を一旦棚上げした上で、それでもなぜ「ジェンドリンという”巨人の肩”の上に登るのはこうも大変なのか」ということを整理しておきたい。いわば、「ジェンドリン哲学」の登山ガイドを整理してしておきたいと考えている。

「なぜ登りづらいのか」という問いは、裏を返せば「どうすれば登りやすくなるのか」、つまりジェンドリン哲学のより理解しやすくするためのコツを探究するにもなるはずだ。

「登りづらさ」の3つの要因

今のところ、ジェンドリンの肩の上への登りづらさ3つの要因を想定して整理している。さわりだけ書くとこんな感じ。

1. 概念の独特さ:“-ing“という動態をめぐって
フォーカシング(focusing) という用語自体がまさにそうだが、ジェンドリンが哲学的主著の1つ『プロセスモデル』の中で考案している概念には、動名詞形(-ing)をとるものが多々ある(eg. crossing, reafing, versoinig, eveving… )。概念のこの動態的な特徴は、ジェンドリン哲学全体の特徴の反映でもあり、同時にその理解の難しさにも起因している。この山の天気もまた変わりやすく、足場も崩れやすい。
さらに、彼の“-ing“の使い方自体に、まるで言葉遊びをしているかのような、かなりの「掟破り」をやっている…例えば、本来”-ing”がつけられない名詞に直接“-ing“をつけたり(eg. symboling)、あるいは“-ing“に“ing“をつけた“inging“なる概念すら存在したり。言葉を遊ばせながら、言葉のルール自体が更新されていくところに、ジェンドリンの読書登山の大きな特徴と言える。

2. 概念定義の難解さ:語の「再帰的」な使用
概念の作りそのものも独特なら、その「定義」の提示の仕方も独特。概念の定義を辞書的なかたちで「こんな意味ですよ」と完結には説明してはくれず、概念を実際に「使用」する、つまり文中で使って見せることでその意味を示そうと試みる。
ウィトゲンシュタイン的な言語観からの影響が見られるこの戦略は、ジェンドリン哲学の特徴である「再帰性」の実例でもある。実際に概念の使用を読み手に要求するのもまた、ジェンドリン哲学の登りづらさであり、面白さでもある。実際に登ってみることでしか、山をいく「勘どころ」を学びづらいところがある。そしてそれが、フォーカシング体験の有無と、重なるようで微妙に連れているところも、次に指摘するジェンドリン哲学の登りづらさにも関連する。

3. セラピー理論としての応用の難しさ:一人称の哲学の限界
これはジェンドリン哲学の読み手の多くが、フォーカシング愛好家や心理療法家であることに起因する、よりプラクティカルな「登りづらさ」とも言える。心理療法を例示とする理論的な記述でも、ジェンドリンは一人称的視点(語り手、クライエント、フォーカサーのプロセス)を重視して言及する。
一方、セラピストや聴き手側の視点に立った理論的記述、二人称的な理論的記述は驚くほど少ない(実践的な言及はあっても、哲学的な裏支えはジェンドリン自身は「書いてくれない」)。ロジャーズのセラピー論や精神分析の理論体系に比べ、セラピー理論としてジェンドリン哲学を読む難しさがこの点にあると考えられる。

「巨人の肩に安全に登り、下りるために」: 登山ガイドの必要性

登山のアナロジーを用いて考えれば、可能であれば哲学関連の書籍を読む際にも、お互いに気が合って、読書体験を支え合える複数人で「パーティ」を組んで読むのいいのかもしれない。フォーカシングの研究者やトレーナーが、読書会や輪読会などを開いている理由にはそういう意味合いも含まれている。

まずはある種のトレッキングガイド、エベレストで「シェルパ」のような役割の方と一緒に登った方が良いのかもしれない。逆にいうとジェンドリン哲学を読んでいくことは、かなりの高地登山に挑むことなのではないかと考えている。それは素晴らしい体験であり、危険を伴うことでもある。

とはいえ誤解いただきたくないのは、「素人は(ジェンドリンという)山に入るもんじゃない」などと全く思っていないことである。幸運にも、ジェンドリンのテキストは実際の山とは異なり、万人に開かれている(それでも外国語という険しさは依然としてあって、僕自身もちっとも「高地順応」できていないのだが)。

一緒にジェンドリンという巨人の見ていた世界、その景色を眺め、面白さを共有したい。ジェンドリンの哲学に興味を持って、登ってみようかと思ってくれた人が、少しでも登りやすいように、工夫できることはないかを探している。

少し前に、登山家の竹内洋岳氏による『下山の哲学』という本を読んだ。確かに、登山において頂上とは通過点に過ぎず、そこから無事下山できて初めて、完結するのだった。本当に登山をなめてはいけない(字義通りの意味で)。

「巨人の肩の上に立つ」というメタファーは通常、巨人の肩の上に立つことで、巨人と同じ景色を見てなおかつ、そこからさらにレンガ積みのように研究を積み重ねて高みを目指すという意味もある。ただ、ジェンドリンの見ていた高みからよりその先を見渡すことで、下山し日常の実践に生かすということも大切な営みだ。

安全に登り、安全に降りられるように山を案内できる山岳ガイドの仕事にも、ニーズがあるように感じている。ジェンドリンという巨人に登るために、某人気マンガに出てくる「立体機動装置」のような便利なものは今のところ見つけられていない(むしろこの機械を使う方が危険な気がする)。

登山道の整備を行うことを目的として、ここしばらくnoteで「ジェンドリン哲学」山岳ガイドと題してジェンドリン哲学を難しさ=面白さ=理解のためのコツを、言葉で整理する作業を進めていこうと思う。
もちろん、3つ挙げたものが4つになったり、途中「危険」を感じたら躊躇なく下山したり、積極的に予定を変更していこう。なるほど登山のメタファーの素晴らしさは、引き返すことが悪いことではないことと教えてくれることだ。長い目で見ていただければ幸いである。

登山では「リタイア」はできません。どんなに苦労して登頂しても、あるいは途中であきらめるとしても、必ず自分で下山しなければならない。だから、「降りてくる」という行為は重要で尊いものです。降りてくるからこそ、次の登山ができる。下山はつぎの登山への準備であり、助走でもあるのです。(『下山の哲学』11頁)


そう言えば、近頃は山岳ガイドという特異的な身体運用能力を持っている存在その人たち自身にも興味を持って研究を始めています。こちらも読んでいただけると幸いです。僕自身はまだ”にわか”ですらない登山憧れの段階ですが、コロナが落ち着いたらぜひ自分も準備をして登山を始めたいと思っています。


<出典>

Gendlin, E.T. (2017). A Process Model (Northwestern University Studies in Phenomenology and Existential Philosophy).  Northwestern Univ Press.

岡村心平(訳) Gendlin, E. (著)(2017). アラカワ+ギンズ:有機体ー人間ー環境プロセス(Gendlin, 2013の邦訳) 関西大学東西学術研究所紀要 第50輯, p.381-393

岡村心平 (2021). 山岳ガイドの身体性 : 「勘」の分析試論 関西大学東西学術研究所紀要 第54輯, p.201-221

竹内洋岳 (2020). 下山の哲学 登るために下る 太郎次郎社エディタス.

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