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【告知】3/28(火)オンライン鼎談『探究 遊び コトバ』に出演します:イベントに向けての補論、遊びについて

ご好評をいただきました、昨年11月9日にオンラインで行われた鼎談企画、禅僧の藤田一照さん、ボディワーカーの小笠原和葉さんとのイベントが帰ってきます。今回のタイトルは「探究、遊び、コトバ」です。仏教界きっての(?)、稀代の遊び人の一照さん、そして遊びに神経系から迫る、いつも楽しいところにいる和葉さんとまたご一緒します。3月28日(火)の夜開催です。詳細やお申し込みは以下のリンクをご覧ください。

探究心と遊び心の交差が"一応の"テーマ。前回もそうでしたが、当日集まって、どんな話が飛び出すか、予測不可能だけど面白さの予感は満載の企画です。ご関心をお持ちの方は、ぜひご参加ください。

「遊び」というモチーフに関しては、個人的にはいくつか”まだ遊び足りていない"と感じているところがあります。
1点めは、ジェンドリンの哲学における「遊び」の側面について。特に、自分の博士論文の主題として扱ったジェンドリンの「交差(crossing)」の概念の背景には、哲学者ヴィトゲンシュタインの後期言語哲学、特に「言語ゲーム(Sprachspiel)」が関連している。"Sprach"はドイツ語で言語、そして"spiel"は"play"、つまり遊びを示す。交差という言語の創造的な振る舞いには、ヴィトゲンシュタインの遊びの比喩が含意されている。フォーカシングの言語論を考える時、このヴィトゲンシュタインの言語ゲームとの関連について、もう少し探究を進めたいと思い、やり残しているところである。
そしてもう1点、そんな交差の概念を手がかりに、僕自身はフォーカシングと、言葉遊びである「なぞかけ」を交差させるという、遊びじみた発想でフォーカシングを探究していったわけだった。今やこの「遊び」という要素こそが、フォーカシングをフォーカシングたらしめている特徴ではないか、とすら言いたくなる。

「なぞかけフォーカシング」なんてことを遊び半分(もう半分はめっちゃ真剣)で言い出し、論文化したのが2013年、博士課程の行き詰りのさなかであった(今年でなぞかけフォーカシング10周年)。フォーカシングに「言葉遊び」というモチーフを掛け合わせてみた(crossing)とき、フォーカシングについて考えたり語ったり、誰かとワークをしたりする時に、何より自分の気持ちがとても楽になった、開かれたような体感があったことをよく覚えている。
それまでは、難解なジェンドリン哲学の話を研究会やら何やらで頑張ってプレゼンしても、周囲の顔も自分の顔も曇るばかり。とはいえペーペーが実践したところで大したこともなく、「フォーカシングの理論と実践を架橋したい」、なんて偉そうなことを目指そうにも、半端と半端を掛け合わせても目減りする一方。
そこに「言葉遊び」を研究のモチーフとなり、また隙あらば言葉遊びをしたくなる気質も相まって、なんとかかたちになっていった、そしてフォーカシングの探究自体が一段と楽しくなっていった実感がありました。遊ぶということを通じて、まず救われたのは僕だったのでした。

ただ、自分がフォーカシングに伝えやすくなったり考えやすくなったこととは別に、フォーカシングをもっと広い意味での「遊び」という社会的分脈の中で捉えることで、フォーカシングのパワーをもっと引き出すことができるのでは?ということも考えてみたい気がしています。以前noteにも書いた、缶詰と缶切りの関係だとしたら、「遊び」はフォーカシング実践を、そしてジェンドリン哲学の理解をめぐっても、もっと便利に、無理なく、手軽に、そしてキレよく、便利に、するかもしれないと思っています。

もっと、フォーカシングで遊ぶために。3月のイベントにてお待ちしています。

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