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経済成長と新しいモノサシ

2024年は、元旦から想像を超える出来事の連続で、報道を見てるうちに三箇日が過ぎた。地元である北陸に大津波警報が出たときは、神に祈る気持ちでNHKにかじりついていた…特に、被害の大きかった能登の皆さんの日常が一刻も早く戻りますように。。微力ながら寄付させていただいたが、落ち着いたらまた直接足を運ぼうと思う。

さて、自分の気持ちを切り替えるためにも、年末にぼんやり考えたことをnoteを書く。

なぜ戦中戦後なのか?

2023年の後半、いろいろな映画を見たが、邦画ではやたらと戦中・戦後を描いたものが多かったように思う。

『ゴジラ−1.0』『鬼太郎誕生』『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』『ほかげ』 『窓ぎわのトットちゃん』『君たちはどう生きるか』などなど。

個人的には鬼太郎が心に残ったが、どの作品もそれなりにヒットし、一部は海外でも高い評価を得ているのは、どういうことだろう、と考えてみた。

個人的な仮説としては、終戦から80年近く経って(≒多くの関係者が亡くなって)、良くも悪くも、日本の戦中・戦後が「古典になった」ということではないかと思った。

例えば、フランスにおける「フランス革命」のように。世界から見れば、戦後の奇跡的な復興・経済成長を含めて「現代の日本はここから始まった」という物語の起源(Origin)として認識されているのではないか。

だからグローバル展開を前提とした日本のアニメ・コンテンツ分野の作品で、積極的に題材にされているのかなと思った。

リアリティのない経済成長

ただ、古典になったということは、裏を返せば、もう現在の話として取り扱われなくなった、ということでもある。

今年は「昭和99年」らしいが、改めてグラフで見ると経済成長という日本が体現した奇跡の物語は、もうリアリティのない話に思える。

日本の戦後70年 >「富国」を追った70年
日本のGDP、ドイツに抜かれ世界4位に IMF予測

先日、高校の先輩であるラクスル松本さんが、こんな論文をシェアしていた。

とても興味深い分析。生産労働人口あたりのGDPは日本もその他の先進国も過去30年の推移は変わらない、という単純な計算。 30-40代の労働人口が多いと消費が大きい。家、車、保険という大型の支出が集中するため。また、30-40代が人口の中心だとリスクをとった経営、クリエイティブな文化が作られやすくなる。 日本は80-90年代。韓国は2000年代、中国は2010年代。アメリカは常に移民で平均年齢が30代。

https://twitter.com/Yasukane/status/1731146573483307410
The Wealth of Working Nations

GDPは30-40代の人口動態に基づいて決まる。と言ってしまえば、元も子もないが、思いつきで反論できるような話でも、即座に逆転できるような術があるわけでもない。

これだけの少子高齢化が進む中では、相対的に停滞していくのはある程度決まった未来なのだろう。

それでも、希望がほしい

だからと言って、人はずっと右肩下がりの状況には耐えられないものだ。自信を失って卑屈になっていく。なにか希望を求める生き物だ。

希望とは何か。極端に言ってしまえば、その状態や中身よりも「昨日より今日。今日より明日、良くなっていく」という右肩上がりの成長感を指すんじゃないかと、映画での戦後の描かれ方を見て感じた。

例えるならば、子どもの身体が日々大きくなり、年々自分でできることが増えていくように。(逆に介護のように、できたことができなくなっていくプロセスは非常に辛い…)

戦争で全てを失った日本の場合、その成長感をリードしてくれたのがGDPというモノサシだった。会社もそうだけど、頑張った分だけ伸びるという環境は、ポジティブな循環が生まれ、結果としてのパフォーマンスにつながりやすい。「失われた30年」で日本が失ったのは、希望のモノサシだったのかもしれない。

そう考えると、日本復活のためには、ひとつの手段だが、右肩上がりになれる「新しいモノサシ」を持つことが大切なのではないかと思う。

※ちなみにGDPも、1人あたりGDPでは高齢化率の高い日本は低いが、生産人口1人あたりのGDPはG7トップレベルである。それだけで認識は大きく変わる。

新しいモノサシ?

日本よりも先に、経済繁栄から停滞を経験した欧州は自分たちの存在感を相対的に高め続けるために、上手く世界のモノサシをつくって、そこにいち早く適合しているように見える。

最近で言えば、「ウェルビーイング」なんかまさにそれだ。事実、世界中でも日本国内でも人々の幸福に関する関心は、ものすごく勢いで高まっている(ように感じる)。

豊かさの現在地 経済成長、日本と世界 / 日本経済新聞
ウェルビーイング第一人者の石川義樹さんの講演スライドより抜粋

僕が関わる富山県の成長戦略でも、この潮流を見越して、全国に先駆けてウェルビーイングを政策の真ん中に置いたが、政策支持は高まっている。(これから国が取り入れるモノサシを、富山が先行事例になれていることが誇らしい)

当然、モノサシということは、これを基準に測る人たちが一定数超えないと、勝手に言っているだけになるので、啓蒙装置としてのPRと不可分とも言える。

SDGsも、ビル&メリンダ・ゲイツ財団のロンドン支社と傘下のクリエイティブカンパニーが世界的なPRを仕掛けることで、一つのモノサシになった(と聞いている)。そういう仕掛けは、僕らコミュニケーションの企画屋がやるべき仕事の一つだと言える。

受け皿としての日本 

ただ、モノサシを日本が発明しなくてもいいのかなと思う。デザイナーの原研哉がたびたび言及するジャーナリストの高野孟さんの日本文化論があって、簡単にいうと、ユーラシア大陸を90度回転させてみると、ユーラシア大陸はパチンコ台に見立て、日本はその受け皿だという見立てだ。

原研哉 著「日本のデザイン」より引用

様々なルートで日本は世界中のモノや考え方を輸入してきた。文字も宗教も食文化もプロダクトも。どんどん取り入れ、独自に磨くことで、いつの間にか最高峰のレベルに昇華してきたとも言える。

そう考えると、モノサシも時代の変化とともに輸入して、都合よく使い分けていけばいいのだ。国や地域としては、成長感を感じられる右肩上がりの設定を持つことが、新たな希望につながり、パフォーマンスが引き出され、好循環が回りはじめる。ひょっとしたら、そんなアプローチもあるのではないだろうか。