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夫婦共々、双極性障害。母は鬱で父は認知。

エレキギターでイッてしまうような、80年代の邦画にある動物的人間臭い初動が、薄まってきている。

竹原ピストルやMOROHAに、その先の未来をみたい。

パチンコ屋の喫煙席にの中にある大きなテレビのの中で、イヤホンでエドシーランを聴きながら大谷のホームランの映像を観る。

さて私は何をしているのでしょうか・・・。

偶然とか必然は特に無く。世の中偶然でしかない。

たまたま生きている。

父親と母親の性欲の間に産まれ出て、今までどのくらいの人と話したのだろうか。

勝手に産んで、勉強しろだ、就職しろだ、結婚しろだ、子供を産めだと、と世界は広いけど、ある国の狭い道を歩こうとしてきた。

大人になってから、親にそんなことをなぜ言ったのかと、問い詰める気はさらさらない。

私も大人になって気づいた事は、好きな事は周りの目などどうでもいいからやり続けろ。

それがどんなに社会に貢献しなくとも、楽しければやり続けろ。

楽しいと言うのは、分からないこと。

分からないから追求する。それを没頭という。

何か答えを見出したくて、「言語化」なんて下らない言葉が生まれる。

わかったことをいうな。

その後の人生なんて分からない。分かっていたら苦労などしない。

〜すべき。なんて言うことは世の中にはない。

100年後、私含め、私の知り合いは誰もこの世にいない。

この間に、私は何を経験するのだろうか。

そして、いくつ悩みが抱えるのだろうか。

応援ソングもしらけて聴こえる。

映画でも音楽でも漫画でも、やはり他人の人生が気になるのだ。

映画・音楽・映画に没入し言語化出来ないものを表現する。

言語化・言語化・言語化うるせぇよ。

上手い事を言う、納得出来る説明が出来る。

それが出来たら頭が良さげに見える。そんなものただの自己満足にすぎない。

言葉の前に来るのが心だ。

ただ、まだ言葉になっていない物事はいっぱいあると思う。

認知症の父親

私の父親は認知症である。

毎日、パジャマのズボンは反対に履き、1日中庭にある椅子にずっと座っている。

だが、最近見学しに行ったデイサービスは気に入ったらしく、デイサービスの女性の運転手さんにダジャレを言っていたらしい。

このダジャレとは、オヤジギャグなんて軽く見られがちだが、ラッパーっぽく言えば「韻を踏んでいる」事になる。

それを会話の間に入れる瞬発力は、とてもボケているとは思えないし、すごいレベルの高い事をしているのではと思う。

父親は人を笑わせたい人なのだ。

今頃そんな事を思う私は、父親の事を何も知ろうとしてこなかった。

着替える事が苦手でもダジャレの瞬発力は冴えている。

脳の使っている所が違うのか。

不思議だ。

そんな父親を支える母親は、私が自我に目覚める前から鬱病である。

だから、私は鬱前の本来の母親の性格は知らない。

子供の頃の家の思い出は、2階で母親が1人で泣き喚き、そこで父親と私が1階のリビングでどんよりとした空気で巨人戦やドリフを観ていた。

私には4つ上の姉がいる。

姉は10代から外で遊びに行っていて、一緒に家でご飯を食べた記憶があまりない。

ほんとにここ数年、父親が認知になってから連絡を取るようになった。

姉はバツイチで子供(男の子)が2人いる。

長男には赤ん坊の時に会ったが、次男には会った事がない。

高校生の次男(左)と父親(右)。
次男大きいなぁ。(姉が撮影)

今や長男は大学生、次男は高校生。

おじさんらしい事は何一つしていない。お年玉とか遊びにも行った事もない。 

彼らと私には何の思い出もない。

何か申し訳ない気持ちもありながら、こっちはこっちで生活でいっぱいいっぱいだった(現在もそう)。

その理由として、付き合う前から妻は双極性障害。母親が鬱病であった為、まったく偏見はなく、私は人間なんて弱い生き物なんだと、母親の姿を人間あるあるだと思っていた。

母親は鬱病の人とは付き合ってはいけないと、自分の経験として言っていた。

だから、結婚して10年以上経つが妻が双極性障害という事は私の身内は誰1人知らない。

隠し続けている。(話しているぶんには誰も気づかない)

だが、精神が病んでしまった人と結婚した事で私は父親の凄さを知ることになる。

私が父親と同じ運命を辿るとは思わなかった。父親が疲れて仕事から帰ってきても安住する場などなかっただろう。(家の中の空気がピリピリしていたり、どんよりしていたりと常に落ち着いていなかった。)

結婚直前まで、私は写真家を目指して東京の南千住でフリーター生活を6年ほどアルバイト生活。

毎日、アルバイトで夜遅くに帰ってきて、それでも金が無くてマックで100円バーガーで、夜はアルバイトの飲食でのまかないで何とか生活していた。

こんな男が結婚なんて発想がない。

そして結婚をするにあたり、写真家を諦め飲食店の社員になった。

そこで約10年飲食のホール業をして、生計をたてることにした。妻は双極性障害で働けず、私の収入でやりくりをしていた。

気をつけていた事は、私も倒れ、共倒れには
なってはいけないと、それだけは気を張っていた。

しかし、去年の8月から精神が崩れ、私も双極性障害になった。

結局、共倒れだ。

精神が崩れた理由は、職場だった。

別に嫌な事をされた訳ではない。

私が1番仲が良く、信頼していた同僚が遠回しにクビになった。

そこから会社、その他の社員への沸々とした怒り。

周りの社員の仕事のスピードが遅く、私も嫌がらせのように新しい事を始めて巻き込ませる。学ぼうとしない姿勢も怒りの原因となり、私は全てを背負い怒りをエネルギーに圧倒的なスピードで終わらそうとした。

おまえらの力不足を自覚しろと言わんばかりに。

確かに圧倒的なスピードで終わらせた。そして、その反動で心がエンストした。

帰り道、最寄りの駅から家に帰るまで涙が止まらなくなった。

家に着くと、何事もなかったかのように振舞っていたが、最後の方は家に着いても泣き崩れていた。

妻は自分が通っている精神科へ私を向かわせた。

仕事は、休職から退職へ。

ずっとアクセルベタ踏みだった。

妻が助けてくれたが、結局共倒れという最も最悪な状況になってしまった。

休みの初めはほとんど覚えていない。

ただ、こんな長期休暇はこれから先はないだろうな・・くらいは考えていた。

次の事も考えられず、どうしていたのだろうか。

双極性障害の夫婦にこの先はあるのだろうか。

ここまでを振り返ると、色々な所で分岐点があった。

結局、それは「たられば」になってしまうのだけれども・・。

人はそれぞれ色々抱えながら、何も抱えてないように日常を振る舞う。

まぁ人生色々あるわな。

じゃあ今現在はどうよ?と聞かれたら「そろそろ底が見えてきた」という感じ。

落ちる所まで落ちて、もう後は上がるしかないといった状態。

これから精神薬を飲みながら、飲まないと生きていかれない身体になってからどう生きていくか。

もう薬を飲む前の自分には戻れない。

子供の頃の私。

私は、子供の頃は「お笑い芸人」になるもんだと思っていた。テレビを付けっぱなしの家で親が好きなのか、「欽ちゃん」「ドリフターズ」「ビートたけし」「とんねるず」「ダウンタウン」。テレビのお笑い番組が実家のブラウン管から常に流れていた。

アニメも「キン肉マン」「おそ松くん」「ドラゴンボール」と夢中になって観ていた。

それらを真似して自由帳に漫画を書いたりもしていた。

勝手にお笑い芸人になるもんだと思っているもんだから、勉強も全然も出来ないし、部活はやっていたけど、父親に似てか人を笑わす事が好きだった。

高校を卒業しても、お笑いをやるもんだと思ってはいたものの、大学へ行った。

大学へ行くと、世の本質を知りたくなった。

難しい哲学書なんか買って読んだりして、でもちんぷんかんぷんでわからない。

なら体験してみようと、とにかく色々な職種のバイトをした。色々な環境に行って見えるものがあるのではないか。また、環境が変わった時、自分はどういう振る舞いをするのか。そこも興味があった。

大学の授業は全くといっても覚えていない。

そこで、どこでどう出会ったのかわからないが、衝撃的な人物に出会う。

それが「立川談志」だった。

多分、大学の図書館に置いてあった立川談志のVHSをなんとなく観たのが初だったと思う。

「あ・・この人は世界の本質を言っている」と思った。

そこから立川談志の本を読みまくった。

当時、アルバイトで貯めた2万円で立川談志のCDBOXを買い、親からうるさいと言われながら毎日寝る前に聞いていた。

そして大学2年の後半ごろ、田んぼと畑しかない私の実家から自転車で15分あたりの所に大きなレンタルビデオ屋が出来た。

それまで映画など観たことがなく、ホームアローンを中学生くらいに友達と観に行ったくらいしか思い出せない。

せっかくだから何か映画を借りたい。でも、どれを観たら良いか分からない。そこに目が入ったのが北野武監督の「その男、凶暴につき」だった。

ビートたけし。

この人は知ってる。ただそれだけの理由で借りた。

これが見事に撃ち抜かれた。

映画はお笑い芸人よりも何でもありの世界なんではないかと。

ある日、地元の本屋で映画雑誌を立ち読みしていたら、中に映画学校の募集の記事を見つけた。

その足で、そのまま映画学校がある恵比寿へ願書を取りに向かった。いわゆる初期衝動というやつだ。

その衝動は収まらず、大学を辞めて映画学校へ行きたいと行ったが、やはりそこは親に止められた。

今考えたら、親の立場からしたら金を払ってんだから卒業して欲しい。でも、私は衝動は心の中で燻っていて毎日のように親と口論になった。

結局、大学は卒業し、就職活動は一切せず、そこから学生ローンで恵比寿の映画学校へ入学した。

そこで気づくのだ。映画はあらゆるスタッフと協力しあって映画は生まれる事を。

そこの協力が極度の私には苦手だった。

また数分の映像を作るのに1週間くらいかかる事がとても嫌だった。もっとサクサクと自分の思いを世に出したかった。

今の時代のようにスマホで撮ってアプリで動画編集なんていうのがなかった。

そして1年で映画学校を中退してしまう。

そこから約1年間、実家で引きこもりの生活を送る事になる。
週の月・火・水だけ工場でコンビニのサンドイッチを作る流れ作業。

それ以外の曜日は、ずっと自分の家に篭って映画三昧。地元に置いてない映画は渋谷や恵比寿にあるTSUTAYAまで借りに行った。(アンダルシアの犬という15分の映画も渋谷まで借りに行った。)

その当時のアルバイト雑誌を買っては映画会社、配給会社の募集だけを見て(めったにない)は応募していた。(結果全滅)

いつかまた映画を撮るかもと思って、1人短編の脚本も何百とノートに書いた。

当時書いていた脚本の一部

また、その年1年で180本くらいの映画を観ていた。

そして、その年の12月初めに引きこもりを脱出するきっかけがあった。

アルバイト雑誌で見つけた映画のADの仕事が決まった。12月初めに何もわからずADになり、その年のクリスマスまで約3週間。

通行車を止め、ゲリラで撮影し、事務所に寝て起きたらすぐ仕事。家に帰れず歯も磨く時間もなく、とにかく無我夢中でついて行った。

そして最終日、クリスマス。新宿で解散して、そのまま実家に帰り、ぶっ倒れたように寝た。その年のクリスマスは全く覚えていない。

今振り返っても、あれほどキツい仕事にはまだ出会ってないし、あれほど楽しい仕事にも出会っていない。

その次の日から別人のように自分が変わっていた。あの過酷な映画のADを、最後までやり切ったという自信が身についていた。

それまで働きたくなかった私が、上野アメ横の地下にある海外の食品を扱っている店で週5で働くようになる。

そのバイトを1年近くやり、貯金を貯め、1人暮らしを始めた。

1人暮らしとしては遅めの25の年だ。

東京都荒川区南千住、家賃6万円。

そここらアメ横の店を辞め、まかないがついている銀座の沖縄料理屋へバイトを移す。

そして、まだある貯金でリコーのデジタルカメラを買った。

映画の共同作業が苦手だったのがわかった。でも何か表現はし続けたいという理由で、また1人で完結出来る写真家になろうと決めた。

とにかく写真を撮り続け(24時間寝ないで外撮り続けた事もある)ある程度溜まったらギャラリーに売り込みに行くという生活。

極度の人見知りの私は、同じ店で働いている人でも話しかける事はなかった。

ただ、その時期に今の妻と出会った。私はモジモジしていたらしいが、妻は社交的な人間で私を引っ張ってくれた。妻なら真正面からでも写真を撮れた。

ただ他の対象となると、とにかく人が撮れないのだ。風景やゴミや人を撮っても遠目から。

そんなつまらない写真を撮っても面白くも何ともない。

あるギャラリーの方からチャンネルを変えた方がいいと言われた。

そこで、人・風景は諦めて、室内で自身を撮るセルフポートレートという形にした。

セルフポートレート(これは血ではなく、墨汁を頭からかけ、白黒にした加工した写真)

全裸で首を吊っている私、血だらけっぽくなっている私。そんな過激な写真をまとめて、また同じギャラリーに行ってら、全裸で首を吊っている写真を見て完璧だと行ってくれた。

ここではジャンルが違うからと違うギャラリーを紹介してくれた。そこでは量が少ないと言われた。次に行った所はボロカスに言われた。

そんな生活が6年ほど続く。最後は、新人写真家の登竜門的なコンテストに出してダメだったら、写真を諦め社員になり、結婚しようと。

その結果、写真家を諦め、妻の実家に近い葛飾区堀切に引っ越す事になる。

銀座にある人気レストランのホール業に就職し、そこで約10年勤めた。
仕事は朝から晩まで忙しく、記憶が飛びながら動いていた事もあった。

仕事の思い出はほとんどない。

飲食業は、仕事が終わった方々がメインターゲットだから自然と帰りが遅くなる。サラリーマンのような残業はなくても、毎日23時半頃に家に着く。

仕事の思い出、妻との思い出もなく、淡々と時間だけが過ぎる。

妻とは旅行に行った事がない。新婚旅行も行けてない。

東は千葉の柏、西は東京の原宿あたりくらいしか一緒に出かけたことがない。

私は中学生の頃に初めて買ったCDがTHEBOOMの「島唄」だった。そこから沖縄にいつか行ってみたいと、今現在も思っている。

妻と沖縄旅行に行くことが、私の夢である。

年々ゆっくりと妻は動けなくなっている。病院以外は、ずっと家でiPadでドラマやバラエティー番組を観たり、ラジオや音楽を聴いている。付き合い初めは、まだ一緒に買い物なんかをしていた。

私もあまり外に出なくなってきている。毎日、コンビニでその日の食べ物を買いに行くくらいで終わっている。

じゃあ、大学生の頃の初期衝動は全く消えてしまったのかというと、そこは明確にはっきりと残っている。

毎日撮っている花の写真

2年ほど前から、毎日ご近所さんが育てられてる花をスマホで撮り、Instagramに投稿している。そのQRコードを載せた名刺サイズのカードを近くの店に配り回っていた。

そのカードが近くの商店街の会長の目に止まり、会長と繋がりが出来た。そこから、あの時の埋もれていた初期衝動が社会貢献として生かされ始めてきた。

自ら開設した街の飲食店やイベントを紹介しているInstagram

そこの商店街を中心にこの街の店やイベントを紹介するInstagramを開設し、写真・動画を撮りスマホのアプリで完結し投稿する。これは映画学校に行っていて、また写真もやっていたから何の抵抗もなく始めることが出来た。

ここにお金は発生しないが、今頃になってあの時の初期衝動が生きるとは思っても見なかった。

毎日描いている顔の絵

そして、毎日寝る前に自由帳に鉛筆で1枚、人の顔の絵を描いて寝る習慣があり、もう1000枚を超え、これも別のアカウントでInstagramに投稿している。

この絵を描くというのは、私の1つの実験であり、今まで映画・写真とすぐ諦めてしまった後悔から、ずっと継続していったらどうなるのかという私なりの試みで今現在も続いている。

写真・動画・絵。

子供の頃、また20代前半の頃の自分とやってる事は全く同じである。

今は別にそれで有名になりたいとは思わない、好きな事を継続出来ているだけでもう満足なのだ。

写真を撮っている時は写真家のつもりで、動画編集をしている時は映画監督のつもりで、絵を描いている時は漫画家のつもりで。

そこに収入がのってないだけで、その時間だけは私のなりたかった私になれている。

それで商店街の会長や店の人が喜んでくれたら、もうそれでいいんじゃないかな。

それをSNSに投稿したら多くの人に見てもらえるし。

世間の評価が欲しい人は別かもしれないが、やりたい事がやれている時間があれば幸せなのかもしれない。

世間の流行りにとらわれず、自分が楽しいと思える事を見つけられ、それに没頭出来る時間がある事、それだけでもう充分なのではないか。

時間は有限で、いつ終わるかわからない。

自分の個人的な好きな事と同じくらい妻との時間を作りたい。

ある飲食店で働いていた時、朝礼で上司が今日息子が朝早く家を出た事が気になり、奥さんに聞いたら「今日受験でしょ」と呆れたように言われたようだ。

私には子供はいないし、他人の人生はどうでもいいが、私はそんな人生は過ごしたくないと心底思った。

人生の限られた時間の優先順位を間違えると、必ず後悔する。

私が老人ホームで作っている様子をスタッフさんが吹き出しを付けてHPに載せて頂きました。(写っているのは私本人です。)

現在、私は何をしているかというと、私の住んでいる東京葛飾区で採れた小松菜で作ったグリーンスムージーを老人ホームやデイケアサービスに出張販売をしている。

ジューサーに小松菜、バナナ、豆乳を入れてスイッチを押すだけ。

スムージーはインスタ映えするが、私は「健康食」として、ご高齢者さんに販売する。

お世話になっている会長の商店街に月・水・金だけ開店している小さな喫茶店がある。

喫茶店さちのば

それ以外の曜日で、この喫茶店で何かやってくれないかと依頼が来た。

色々考え調べて3つアイデアが出た。1つは読み切り漫画専門店、1冊で完結する漫画だけを集めた本屋。読み切りでも書かれた名作があるから良いのではないかと思ったが、高齢者さんが多いこの街には厳しいと思った。

2つ目は、レトルトカレー専門店。全国のレトルトカレーを本棚の様に並べて、カレーだけを買っても良いし、そこでコンビニのレンジで温めるご飯だけを用意してその場で食べるのも出来る。これも平日は厳しく、バリエーションが豊富だからリピーターは増えるかもしれないが、やはり年齢層に課題があり厳しいだろうなと感じた。

私が住んでいる街は、現役世代は朝早く都心に向かい、夜18時頃に帰ってくる。すなわち、平日はご高齢者さんしかいない街なのだ。それを踏まえて考えたのが、3つめのグリーンスムージー専門店だ。これは栄養価が高いから、「栄養価が高い」「健康ドリンク」というワードをアピールすればご高齢者さんでもリピーターがつくのではと思った。また、「葛飾元気野菜」という葛飾区で採れた新鮮な小松菜を使う事で葛飾区の農家さんも潤い、飲んでくれたご高齢者さんの栄養にも繋がる。

葛飾元気野菜

ただ、その喫茶店がある通りは人通りが少なく、客数はあまり望まない。ならば、ご高齢者さんが集まっている場に自ら出向き、そこで飲んでもらえばいいのでは。そこで、近くの老人ホーム・デイケアサービスに問い合わせして、そちらで出張販売の営業をかけてみた。

8社ほど営業をかけ、2社契約がとれた。

契約がとれた1社の入居型老人ホームに出張販売は出来た。1階の食堂を借りて、作っている過程を見てもらいながら、15杯ほど売れた。

小松菜グリーンスムージー

香り・色は小松菜だが、飲んでみたらバナナの甘さが広がるというマジックのようなグリーンスムージー。

「美味しかったよ」とご高齢者さんから直接言って頂けた事に、これで食べて行けるかまでは分からないが、何か新たなスキルを身につけたと思った瞬間だった。

会長への恩はすぐには返せなくなったが、収入が安定すれば、あの喫茶店でスムージーを販売したい。
これから先、妻との時間を優先にしたい。それには会社に時間を奪われない様な働き方が必要。

個人でスムージーの出張販売を始めた理由もそこにある。

私は現在43歳になる。

定年過ぎたらやろうと思っていても、心身に支障が出たら時間があっても出来なくなる。

今現在ですら、薬を飲み続けなければならない人間なのだから、出来るだけ若いうちにやりたい事をやらないとという気持ちがある。

夫婦2人とも双極性障害。

不安・焦り・息苦しさ。 

逆に、やれ・恐るな・進め。

という気持ちもある。

心の中で渦が巻いている。

成功者や自己啓発系の本など読んだ所で、その時代・それぞれのキャラクター・年齢が違うのだから何の参考にもならない。

私のやり方を見つけ出さないといけない。

またすぐに結果が出るとも思わない。粘り強く、しつこくやり続ける忍耐力が必要。

進みながら微調整をする。

研究者のように何度も何度も失敗し、その失敗をヒントとして成功に近づく。

研究者思考が何より大切だと思う。

失敗したとする。でも、このやり方は違うのだという学びを得た事にもなる。

その繰り返し。

いつか必ずその経験が活きる時が必ずくる。

私で言うと、映画や写真がそう。

20代、夢中になってやっていたものが、40代になりInstagramというツールで活きた。

経験はいつ活きるか分からないから、経験は出来るだけ多く色々なジャンルを積んで置いた方が良いのかもしれない。

新しい事に対して、恐れず手を出す事。
私個人、また時代そのものに過渡期のような空気を感じる。

変わらなきゃいけない。

以前以後がマダラのように混ざり合っている。

この世に安定などない。

いつか必ず何かが起きる。またそれを乗り越えるのか、濁流に流されるまま流されて、見知らぬステージに放り出されるのか。個人ではどうしようもならない力でねじ伏せられてしまうのか。

今の私も双極性障害になりたくてなった訳ではない。もちろん妻もそうだし、鬱病の母親もそうだし、認知症の父親もそう。

今は確かに苦しい。逃げ出したくなる日もある。でも、この苦しさを乗り越えた先に何かしらあるのではないかと。

そう思えてならないのだ。いや、そう思ってないとやってられないと思っているのかもしれない。

夫婦共々、精神障害者であるが、収入は得なくてはいけない。かと言って、無理は出来ない。

家賃が今よりも安い所へ引っ越そうかという案もあるが、2人とも新たな場所を探し、荷物まとめるほどのエネルギーがない。

無理をせず、今の生活を維持するのには自身の力で稼ぐしかない。

調子が悪いから今日は休みますは、会社に勤めたらそれは通用しない。

また、妻を残して出張や転勤なども出来ない。

転職は難しいだろう。

私の人生の隣には常に精神を崩した(母親・妻)人がいる。

子供の頃も、子供ながらに精神が不安定な母親に気を使っていた。何も出来ないから、寄り添う事だけはしとこうと。

今の私もそうで、妻の隣に寄り添うくらいしか出来ない。それが正解かどうか分からないが、それくらいしか出来ない。

私の思う「寄り添う」とは、相手の邪魔をせずに、でも一定の距離にいるという事。

話しかけられる距離にいるけど、相手の世界には入らず、でも何かあればすぐ反応出来るような。近くにいるけど相手の1人でいたいという気持ちも尊重する。そんな感覚。

父親が家では口数が少なかった理由がわかったような気がした。父親も気を使っていたのだろうか。そんな事も忘れているのかもしれない。今となってはもう遅いが、2人で酒を飲みながら父親の本音を聞いてみたかった。

色々な人に出会うと、皆それぞれの人生があり、苦難を乗り越えた人もいれば、苦難にぶち当たっている人もいる。

「普通」とか「一般的な家庭」など存在しない。カテゴライズ出来ない、それぞれの家庭にそれぞれの何かが潜んでいる。

夫婦共々、双極性障害のこれからはどうなるのかな?

よく言えば、鬱病の母親に育てらた免疫があったからこそ、双極性障害の妻と10年以上生活が出来、妻が双極性障害だったから、私が崩れた時、すぐに適切な病院へ連れて行ってくれた。

この先どうなるか。全く分からないけれど、分からないなりに手探りに歩いたり、止まって一息ついたり、誰かに手を引っ張ってもらったり、声をかけてもらったり、怒ってくれたり色々あるんだろうな。

2人での沖縄旅行はいつ行けるのかな?

THE BOOMの「島唄」のMVで観た沖縄のあの離島へ。

#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門


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