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【ホラー考察】「お憑かれ様でした」を徹底分解

2ch に投稿された以下の文章。

供養させて頂きますので、次の準備をして下さい。
コップ一杯の水を用意して下さい。
用意できたところで呼び出してください

では、供養します。

電灯の明かりを消してください。
消して頂いた時点から供養を開始します。
また、呼び出してください。

昇抜天閲感如来雲明再憎
昇抜天閲感如来雲明再憎
昇抜天閲感如来雲明再憎

すぐにコップの水を飲んでください。

以上で供養は終了です。
邪念は取り払われました。
おつかれさまでした。

【洒落怖】おつかれさまでした。[※閲覧注意] – 2ch死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない? (occultan.com)

結局「おつかれさまでした。」は「お憑かれ様です」という意味で、呪いの一種として扱われた。
一体どこが呪いの一種なのか、今回は分解して考えてみる。


コップ一杯の水

まず水場には霊が集まりやすいというのは周知の事実であろう。それは霊も人間と同様水を飲むからだ。しかし、それだけではない。水と霊の関係はもっと深い。
水は神道においても、清めの効果を持ち様々な場所で利用されている。

神社の手水は、神の道に置く重要なものであり、聖域として扱われる。神社に行ったことがある人はわかると思うが、手水舎で体 (手) を清めてからお参りをする。因みに昔は神社の手水は、神社周辺の河川や湧き水などを利用していた。
また、滝行も同様だ。冷水を浴び、体の汚れを去るための行いである。水を用いて罪や穢れを清める儀式をみそぎという。

さて、水が神聖なものと密接に関係していることはわかるが、その逆、呪いなどに関係はするのだろうか。
「呪い 水」と Google で調べてみたところ、呪水という言葉がヒットした。

【呪水】じゆすい
呪法の水。

呪水(じゆすい)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

ちなみに呪法とは以下の通り。

呪文を唱えて行う法式。特に、密教で、呪文を唱えるなどして行う修法。

呪法(ジュホウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

以上から、呪文を唱えて行う法式の水であり、呪いの効果が含まれていることはわかる。

昇抜天閲感如来雲明再憎

これにいては、全く見当もつかなかった。
そもそも読み方だが、
しょう ばつ てん えつ かん にょ らい うん みょう さい ぞう
と読む。

そして、恐らくだか以下のように分解できると思う。
昇抜 / 天閲 / 感 / 如来 / 雲明 / 再憎
もちろんこれは間違えている可能性もあるし、仏教においてこの言葉は存在しないとネットでは言われている。もしかしたら、雲をつかむような考察だったし、的外れな考察かもしれない。
その点は了承してほしい。

昇抜

これについても全く検索しても分からなかったが、唯一関西大学の「台湾道教の水死者救済儀礼とその文書」という論文が取り扱っていた。

 現在、台湾、特に台湾南部地域では、喪葬儀礼のうちの做旬あるいは做七と呼ばれる部分や廟などで行われる追善供養の法会において、烏頭道士と称される正一系の道士により、「功徳」と称される超昇抜度の儀礼が今なお盛んに行われている。この功徳は、道教の伝統的な「黄籙斎」の中でも専ら死者救済のために行われる「開度黄籙斎」の系譜を引くもので、「発表」や
「放赦」、「沐浴」、「解結」などといった数個から数十個の科目により構成され、道士たちはある程度定式化したプロセスに沿ってこれらの科目を行っていくことにより亡魂を地獄から救済するのである。

台湾道教の水死者救済儀礼とその文書

どうやら地域によっては、昇抜は儀礼として扱われているようで、その点に違和感はない。

天閲

これは、てんえつと読むが、天閲では検索にヒットしなかったため、もう少し細かく分解する。

天については、空を指すことが一般的だ。もちろん天国といった上の存在も示す。
そして、上記にもある通り、台湾などにある宗教を基にしていることからも仏教を指すとすれば、天は仏教において、上位の神々が住む世界とされている。また、仏教では、信仰を妨げる人々から守る護法の役割がある仏としても天は知られており、帝釈天や弁財天などの仏が代表的だ。

閲については、数える、経過するという意味以外にも、調べる、明らかにするという意味もある。

以上から、天閲は、天界にいる上位の神々の存在を定義し、わかるようにする状態までもっていく、ということではないだろうか。


感は、物事について心が動くことや、自分の意思にかかわらず自然と認識されることを示す。
天閲が、神の存在をわかるようにした状態であれば、認識できるようにする必要があり、感という文字は”認識”という意味合いで使われるのは妥当なはずだ。

如来

如来は、仏教でも特に重要な言葉である。如来は、真の仏であり、悟りを開いた仏を指す。如来は、修業した菩薩がなる仏である。また、サンスクリットのタターガタの漢訳である。
如来の原語は、タターガタである。漢字とすると、多陀阿伽陀・多陀阿伽度である。

如来は、過去に出現した仏と同じように、すべてを知る悟りを導く精神作用の慧へ到達した者である。また、煩悩をすべて消し去った者としても解釈されている。

大日如来像 より引用

鎌倉時代の前半から中期にかけて活躍した仏教家である、親鸞が出した『教行信証』には、
「如来はすなわちこれ真実なり」
という言葉が記されている。

大谷大学の解説を借りるが、以下のような解釈がされている。

 「真実」という言葉は、魅力的です。書物や映画にも、「真実」という言葉が付いた題名が多く見られます。それほど私たちは「真実」という言葉に心を引かれます。しかし、私たちの考える真実は、本当にいつの時代にも、誰においても変わることのないものなのでしょうか。もしそうであるならどうして、国と国や、人と人において、お互いの真実が対立したり、衝突したりするのでしょうか。結局のところ、私たちの言っている真実とは、自分の都合なのです。そしてその都合は、状況や立場が変化すれば、その途端に変わってしまうものです。それは、真実と呼ぶことができないものなのではないでしょうか。

 上に掲げた言葉で親鸞は、如来こそが真実なのであると、述べています。それは、人間を照らし出す如来のはたらきこそが、どのような時代においても、誰においても、決して変わることがないからです。親鸞は、そのような如来のはたらきによって、自分の本当の姿に気付かされたのでした。その本当の姿とは、如来が知っているようには何も知らないにもかかわらず、あたかも知っているかのように思い込んで、言い争い、相手を憎み、傷つけ合っている、そのような人間の姿でした。

 自分の都合によって傷つけ合いながら生きている人間、その人間の暗闇を根底から照らし出し、共に生きる道を開こうとするのが如来のはたらきなのです。この如来のはたらきこそが、立場や時代や状況がどれほど変わろうとも、決して変わることがない確かな真実なのです。親鸞は、この如来のはたらきを仰いで生きていったのです。

 私たちは、他の人の悪いところはよく見えるのに、自分の悪いところはなかなか見えません。相手の悪いところばかりを見て、相手を責めてしまいますから、争いも絶えません。このようにいつも相手の方にばかり向いている眼を、自分自身に向けさせて、自分を本当に知らせてくれるのが如来のはたらきです。自分自身の姿に気付かせ、共に生きる道を呼びかけ続ける如来のはたらきこそが、決して変わることのない真実なのです。人々がその真実に出遇って生きていくことを願いながら、親鸞は「如来はすなわちこれ真実なり」と、示しているのです。

如来はすなわちこれ真実なり | きょうのことば | 読むページ | 大谷大学 (otani.ac.jp)

如来は人間の醜い姿などが昔もあったように、そういうところの醜態を根底から照らし出し、共に生きていこうとしていたことを示していた。

雲明

これは、恐らくだがレ点が入り、「雲レ明」とし「明雲」を指していると考える。
明雲は、平安時代末期の僧であり、天台宗である。明雲は、高倉天皇の護持僧や後白河法皇の授戒師を務め、平清盛との関係も深い。1100年後半、平家の護持僧として平氏政権と延暦寺の調整を担っていた。しかし、平家都落ちには同行せず、延暦寺に留まり、、源義仲が後白河法皇を襲った際、首を斬られてしまう。ちなみに、同様の戦いで殺された円恵法親王の遺骨とともに高野山へ運ばれる。

現在では高野山は、貴樹陰で呪いの代行としてもかなり有名だ。離縁・縁切り・事故・怪我・病気絶命祈願として使われており、様々なサイトで呪いの紹介はしている。 (呪い推奨をしているわけではないので、サイトの紹介はしない)

過去の事件もあり、明雲の呪いはかなり強いと想像できる。

再憎

再は、様々な意味がある。意味としては、また、再びという意味や、過去におきたことをもう一度繰り返すという意味もある。起きた事象を再び繰り返し起こすという意味もある。

憎は、馴染み深いとは思うが、気にくわない、腹立たしいという意味のほかに、 忌み嫌うという意味もある。

つまり、過去におきた事実を憎み、再び繰り返し起こす、という意味だろう。

考察

以上を加味したうえで、考察してみよう。
まずは、水を用意することで、霊的なものを呼び寄せる。もちろん神とも親和性はあり、降霊術の準備をする。そして、それを呪水とすることで、あとは呪文を言うだけだ。

昇抜天閲感如来雲明再憎

そして、上記の呪文を読むことで完成する。呪文の内容は、仏教等身分、地位、時と場所などによって行なうべき一定の礼法をまずは定義し、天界にいる上位の神々の存在を我々が感じられるようにする。その姿は、真の仏を指すが、その仏の僧の力を借り、過去おきた事件 (残虐な内容) をまた起きるように祈る。

ではないだろうか。つまり、首切が起き、過去の偉人が殺されたときの無念・呪いなど、それも神の力を借りて現実で再現する。
そう思えば、この呪法は、神レベルの霊を降霊させるようなもので、かなり危険な降霊術であることがわかる。

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