偏ったジェンダーバイアスにどう向き合うか。性教育は教科の中でのみ行うものでもない。

性教育に関する本を読んでいて思うのは、子供の性に対する認識の在り方は、その子供の親や子供の置かれた周囲の環境に大きく影響を受けるのだということ。だからこそ、学校などの公的な場において性教育を「等しく」受けさせることが大切だと感じる。

太田啓子(2020)『これからの男の子たちへ:「男らしさ」から自由になるためのレッスン』(大月書店)を読んだ。「男の子」に関わるジェンダーバイアスを問題にしていて、「ホモソーシャル」や「有害な男らしさ」、「カンチョー放置問題」、「インセルによる暴力」、女性と性行為をする権利があると勘違いする男など、多様な視点でジェンダーバイアスを論じていて面白かった。「男子ってバカだよね」問題というのも取り上げられていて、男子はちょっとしたいたずらやドジ、勘違いによる失礼な行為を「バカだよね」という言葉で片づけてしまうことについて批判的に見ている。例えば「弁当箱を忘れて帰る」、「カンチョーでふざけて遊んでいる」など。著者は弁当を忘れて帰るというのは女子にもあるし、カンチョーは性暴力ではないかと指摘する。

著者はこの本の中で、自分の息子に対してどのように接しているかということにも触れている。息子が「カンチョー」して遊んでいるときには良くないと伝え、テレビを見ていて性的偏見の含まれた表現のコントを見たときには、こういうのは好きじゃないと伝える。その一つ一つの行動が考えられたもので、非常に教育的な行為だと思う。しかし、そのためには、ある程度の問題意識があって知識があること、それを意識して子供に接することができる十分な時間があることが必要となる。これはなかなか出来ることではない。理想は親や子供の周囲の環境が性教育とまで言わなくとも、性に関しての捉え方を教えることが一番だろう。しかしそのためには多くの障壁があるといわねばならない。それは教育格差の問題でもあり、経済格差の問題でもある。教育格差が経済格差によって拡大するというのは、こういった例を考えるだけでも十分に理解しうる。

学校で行う性に関する教育は「性教育」と括られて表現される。しかし子供の日々の生活からジェンダーバイアスが形成されるという視点に立てば、教師の学校生活での言動そのものも性教育の一つとなる。「男はかっこいいけど、女は弱くてダサい」と言われた小学校2年生の女の子の相談をきっかけに、学校での話し合いの場を設けて性教育の一つの在り方とした教師の話も紹介されている(130頁)。性教育を「保健体育の授業で行うもの」と限定的に捉えるのではなく、子供が行う言動に対して自らのジェンダー観(それ自体が適切なものでなくてはならないが)をもとに接することで、良い影響は大きいだろうと思う。何も「性教育」として括った、教科の中での性教育を考える必要は必ずしもない気がする。LGBTなどの性的マイノリティの人に関することでも、日々の生活の中で教師がどのような接し方をするか、それを考え行動するだけでも違ってくる。

学習指導要領の性に関する「はどめ規定」について、永岡桂子文部科学大臣は、10月26日、衆議院文科委員会質疑で、「撤廃することは考えていない」と答弁し、規定を見直す考えがないことを明らかにした。はどめ規定とは、学習指導要領における「生殖」に関する教育課程について、「性交」を扱ってはいけないという規定のことだ。小学5年の理科「生命・地球」では「人は、母体内で成長して生まれること」を取り上げる際に、「受精に至る過程は取り扱わないものとする」と記述があり、中学1年の保健体育科では、「心身の機能の発達と心の健康」として「思春期には、内分泌の働きによって生殖にかかわる機能が成熟すること。また、成熟に伴う変化に対応した適切な行動が必要となること」について生徒の理解を求めているが、その際に「妊娠や出産が可能となるような成熟が始まるという観点から、受精・妊娠までを取り扱うものとし、妊娠の経過は取り扱わないものとする」と示している。

永岡文部科学大臣は、「学校における性に関する指導にあたっては、個々の生徒間で発達の段階の差異も大きく、児童生徒や保護者、教職員が持つ性に対する価値観は多様。本当にそうなので、集団で一律に指導する内容と、個々の生徒の抱えている問題に応じて個別に指導する内容と区別して、指導することとしている。」と述べるとともに、現行の学習指導要領の下で、性についての適切な教育が行われているという認識を示した。発達の段階の差異が大きいからこそ、性に関する価値観が多様だからこそ、「ここまではきちんと教育してほしい。こういったことは扱わないでほしい」などと慎重に議論を重ねながら、性教育を検討していく必要があるのではないのか。

佐伯啓思は『自由とは何か:「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』(講談社現代新書)の中で、イギリスの政治哲学者であるジョン・グレイの『自由の二つの顔』を引き合いにして西欧啓蒙主義が生み出した二つの異なった自由な考え方を示している(48-50頁)。一つは人類に普遍的なものとしての自由であり、もう一つは、それぞれの国の社会や文化の相違を相互に尊重しあうという多元的な自由である。一つ目の自由は個人の自由と言い換えてもよいかもしれない。個人という単位は、民族や国家といった多様な社会集団とは違って、意思決定を行う究極的で普遍的な単位だからだ。この種の自由はフランス革命の中で生み出されて人権宣言によって定式化された。二つ目の自由は、社会は多様であり、世界は多様であり、多元的なものから構成されているという文化的多元主義、社会的多元主義に基づき、それらの多様な文化、多様な民族・風習から成り立つことを認めるという「多様性の承認」を自由の意味だととらえるものだ。この二つの考え方は、決して調和的ではなく、自由の概念は二つに分岐してしまうのだという。

その対立の象徴として、1980年代から1990年代にかけてのアメリカの文化戦争を挙げている。アメリカは西欧発の「理想の共和国」であり、西欧の歴史や文化を重視する「自由」や「民主主義」の理念重視の捉え方を大切にするとともに、様々な移民から構成された「移民社会」であり、マイノリティの権利保護から出発した多文化主義を大切にしている。この二つが様々な問題において対立するようになったのが、1980年代から1990年代にかけてであり、「文化戦争」と呼ばれた。多文化主義的視点においては、アメリカや西欧諸国が大切にしてきた普遍的な自由の理念をも相対化する。「個人の自由」という「普遍的なもの」と、「民族や文化の間の差異」が生み出す「相対的なもの」の間でのディレンマがあったという。その両者の対立の中にある接点を見出すことは可能なのか、対立を括れるような「自由」の理解は果たして可能なのか、が問題となってきた。

性教育の話に戻ると、性教育の在り方や性に関する認識や考え方も、どんどん多文化的なものとして捉えられていく傾向にあると思う。普遍的な性に対する見方というものが、見方の偏ったジェンダー観の批判によって、肩身の狭いものとなっている。確かに性に関する認識が多様なことは悪いことではない。しかしそれと同時に普遍的な性に関する認識を教育することも忘れてはならないだろうと思う。両者の接点や両者を括った理解をどのように考えていくのか、慎重に考えていく必要がある。それは「偏ったジェンダー観への批判を理由に普遍的な性に関する認識がどうあるべきかを考えない」ことの問題性を明らかにする。今回の永山文部科学大臣の答弁には、「多様性の時代なんだから、一つの認識や価値観を教えることなんてできない。だから教育しない」という雰囲気さえ感じさせる。だからこそ慎重に考え議論していく必要があるのではないか。

【参考文献】
・太田啓子(2020)『これからの男の子たちへ:「男らしさ」から自由になるためのレッスン』(大月書店)
・佐伯啓思(2004)『自由とは何か:「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』(講談社現代新書)
・佐野領(2022.10.26)「性教育のはどめ規定「撤廃せず」永岡文科相が国会で答弁」『教育新聞』(閲覧:2022.10.27)
(https://www.kyobun.co.jp/news/20221026_05/#:~:text=%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%A6%81%E9%A0%98%E3%81%AE%E6%80%A7,%E3%82%92%E6%98%8E%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82 )

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