見果てぬ夢、暴力こそパワー
中学校にテロリストが侵入し、普段はパッとしない自分が素人ながらクールに対処して一躍ヒーローになるという妄想をしたことはあるだろうか?
私はある。その後の学校生活に影響しそうだな、参ったなーなどとそこまで考えていた。
「大したことじゃない」みたいな顔してクラスメイトの畏怖の眼差しをスルーし、唐突に転校するの格好よすぎるな、などと思ったものだ。
ちょうど中学生の頃である。
他には才能を見出されるパターンの妄想もあった。私は歌が非常に苦手でひどい劣等感を抱いていたので、「実は自分の周りが皆音感が誤っていて自分だけが正しいのだ!」という妄想でもって心を癒していた時期もあった。
だがこれはあまりに虚しく、さほど気も晴れないのでやめた。
やはり、ナイーブな思春期の心を癒してくれるのは圧倒的暴力だったのである。自分が強いと思い込むことは、人間の奥底に残る野生的なプライドを守ってくれる。
ケンカは良くない、と大人は子供の私たちを止めた。私は優等生ぶっていたので、その通りですねと従った。けれども、私はケンカが悪いことだから従っていたわけではないのだと今さらになって気づく。
勝てないから、そして勝ったとしても自分が悪者になるから、私はやらなかったのだ。自分が悪者にならなくてすみ、しかも勝算があって気持ちよく勝てるのならば、いつでも私は物理的なケンカをしただろう。
歴史を振り返れば、デメリットがなくメリットと勝算があるならば、戦争をしなかった国の方がめずらしいのではないか。
それと同じである。
吠える犬は噛まないとはよく言われることだ。しかし、私は吠えもせず噛みもせず、「暴力は良くない」と大人の教えを口にしながら、いつか暴力を奮いたいと腹の底で抱えて大きくなってしまった。だが十代になって以降は機会は訪れなかった。
その後、私は機会があっていくつかのオンラインゲームなどに挑戦した。だが戦闘に強くなるには研鑽が不可欠だという当然の事実に打ちのめされ逃避した。はっきり言えば面倒くさくなったのである。
こうして自分の頭の中をじっくり見ていくに、気楽に敵を暴力で倒して勝ち誇りたい、という感情は、私の中の非常に根源的な欲望なのではないかと思う。
自分が根本的な善人である、あるいは成長して善人になった、という思い込みだけは抱いてはならない。私は、自分に向き合うたびにしみじみと実感している。
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