なんちゃって英単語、いんえみゅらい……?


 身内のスリッパに、目を閉じた猫のイラストの縫い取りと一緒に「inemurineko」と書かれていた。

 私は猫の可愛らしさに目をひかれてその文字列を認識し、「インエミュライ……」と英単語らしく音読をしてしまった。だが「neko」を英語らしく読むことができず、ああこれはどうやら英語ではないらしいぞ、と察した。

 見慣れたアルファベットを用いる知らない言語、例えば何だろう……と考えたところで、私はようやく気づく。

 「居眠り猫?」

  この結論にたどり着くまで何秒かかったのかわからない。ただ私は答えをつぶやき、身内はそれを笑って肯定した。
 さらに身内は続けた。

 「同じこと、この前も言ったよ。変な読み方して」 

 まったく記憶にない。
  他の誰かと勘違いしているのでは? と尋ねたが、身内は、そうかなあ、と首をひねるばかり。しかし私も記憶が蘇ることなく宙ぶらりんだ。

  だが、身内が自分から確信を持って「お前が『居眠り猫』を『いんえみゅらい……』と読んだのは二回目だ」と告げたのだから、事実無根ではあるまい。例えば身内が予知夢を見ていて現実と混同しているだとか、無意識のうちにタイムリープをしているだとか、そういった可能性を排除すれば、おそらく私は同じ間違いをしたのだ。

  自分が勝手に切り離されて、違うところで勝手に行動しているかのような奇妙さがある。だが私は安堵もしていた。

  忘れているとうっかり同じ言動を繰り返す。過去も現在も、私は本当に同じ人間なのだと実感できるからである。
 人間は生物である以上、全身の原子も着々と入れ替わっていく。原子レベルで考えたとき、昨日の私と今日の私は違うものだ。 

 それでも私はささいな間違いを犯す。これが私の連続性と同一性を保証しているような気がした。そしてこれを指摘してくれる相手が存在することも、案外、社会的動物である人間の人間らしさを保証してくれる要素に思えるのである。 


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