三千円と「ひとかどの人物になるかも」家系の人たち


   人間が主観でつける価値とは、相対的なものである。
 例えば、無人の砂漠で遭難して死にかけている人物は、五億円よりも助けを呼ぶ道具が欲しいだろうし、もっといえば水と食料の方が緊急性が高いだろう。

  どのような立場であるかに応じて、主観的な金銭の価値は変動する。


 これをしみじみと悟ったのは私が高校生のときだったと思う。私が通っていた公立の小学校には医者の家庭の子供も貧乏人の家庭の子供もいたので、もちろん、その頃から漠然と感じたことはあったはずだが、はっきりと理解したのは高校生になってからだった。

  私は人並みよりほんの少しばかり勉強ができたので、公立高校の中で偏差値がそれなりに高い高校に入った。歴史があることが自慢で、制服の着こなしや頭髪の色について特に規定のない高校だった。 

 確かではないが、聞いたところによると、子供の偏差値と親の収入は比例する傾向にあるらしい。
 だからか、私の周囲にいた高校の同級生たちを見ると、中央値よりやや裕福な家庭の子供が集まっているように私には思われた。実際のところどうだったのか、今さら確かめようがないことだが。

  ちなみにアルバイトは原則禁止だった。つまり私もアルバイトをせずにのうのうと高校に通って卒業したのだから、決して恵まれていないわけではない。

 ただ、私が価値観の違いに震撼したのは、同級生が唐突に「三千円が入った財布を落とした」と言い出したときである。
  すぐに探さなければ、などと騒いだ私に対して、同級生は「お金はもういいけど家の鍵が入っているから……」という趣旨の返答をした。

  三千円。

 これをお読みの方にとってはどの程度の価値があるだろう?
 時給にして三時間分?
 一時間分?
 あるいはそれ以下だろうか?
 ちなみに最低賃金が千円を超えているのは東京都と神奈川県くらいである。

  一般的に考えて、三千円は例えば人生を動かすほどの額だとはとても言えまい。

 だが親が稼いで自分の財布に入れている三千円を「もういいけど」と簡単に言える、同級生のその立場に思い当たったとき、私は驚きと感心と妬みの入り混じった複雑な感情でいっぱいになったのである。

 私が三千円を落とせば地面を舐めるように探し回っただろうし、今でも大騒ぎして取り返そうとするに違いない。


  私の同級生たちの多くは「それなりの」大学に進学していったし、もしかすると何割かはひとかどの人物になっているかもしれない。

  この出来事は、「ひとかどの人物になるかも」家系の人々の世界へ、「基本的にありふれた人物」家系の私がひょっこりとお邪魔した、そんなワンシーンだったのだ。

 「ひとかどの人物になるかも」家系の同級生は、私が三千円で大騒ぎをしたことに困惑していた。思いもよらなかったのだろう。

  それはまさしく、私が、家庭の事情で高校に通えなかった同じ国の人々のことを考えもしないのと同じなのだ。 


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