もろい言葉と高い壁

 音楽が嫌いというわけではないのだが、ライブやコンサートに行ったり新曲を買い集めたりするほど好きなアーティストがいるわけではない。身内が部屋でかけている曲や、ラジオからよく流れる曲あたりを知っているくらいだ。


  しかし、先日身内が見ていたあるアーティストのライブ映像が印象に残っている。彼らは日本のアーティストなのだが、海外でライブをしたらしかった。
 

 日本の公用語が英語やフランス語であればいざ知らず、日本語を公用語とする国家は世界中で日本しかない。
 つまり海外で日本のアーティストのファンとなった外国人は、ほとんどが最初は日本語を知らない状態から始まったのである。日本で外国のアーティスト、特に英語以外で歌を歌う人々のファンとなった人と同じだ。 


 ライブは盛り上がっていた。私はしみじみ感心していた。 


 私は初見である程度意味が理解できないとなんとなく不満が溜まってしまうタイプで、しかも知らない言葉を耳だけを頼りに復唱するのは非常に苦手である。だから外国のアーティストの大ファンになる可能性は低いと思う。 

 だが、私には超えがたいその壁を超え、海の向こうの誰かの熱狂的なファンになる人々がいる。その熱量はすごいものだと思う。
 

 こんなとき、私は文章や思考というもののもろさを知るのだ。

  意味はわからなくとも、なんとなく素敵な音楽。なんとなくかっこいい音楽。そう感じさせるものはあまりにたくさんある。
 

 一方、思考を表すのに必要不可欠なのは文章、あるいは言葉で、言葉というものは理解されてはじめて意味を持つ。
 
 言葉は不自由で難しい。つくづくと身にしみるのだけど、私は絵も音楽もできないものだから、結局は言葉を一応信用しておくしかないのである。


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