n回目の地震と初めての恐怖感


 前にいつ髪の毛を切ったか、すっかり忘れてしまった。
 自力で思い出す手立てはない。日記をつけていればいいのだろうが、誰に見せるわけでもないのに「何か興味深いことを書かないと」という強迫観念を抱いてしまうせいで、日記すら続けられないのである。 

 それにしても、記憶というのは曖昧なものだ。
  特に、認知症になった祖母と暮らしていたときは記憶について常々不思議に思っていた。最近の出来事を忘れてしまうのはもちろんのことだが、昔の話はよく覚えているのかと思いきや、時期が混同していたり明らかに間違っていたりする。 

 そんな中でも印象深いのは、地震のときのことだ。
  震度四程度だろうか、明らかに揺れたことがわかるが大きな被害が出るほどではない地震が家を襲ったことがあった。違う部屋にいた私は、揺れが収まってから祖母のいる部屋へと様子を見にいった。

 祖母は寝ているところで、揺れで目を覚ましたようだった。 「こんな地震初めてで……怖いねえ……」
  という旨のことを祖母は私に言った。

  それはおかしい、と私は知っていた。祖母はもっと大きな地震を経験している。これは客観的事実であり、そして何年か前までは覚えていたはずなのだ。

「いやそれは」
 と私は言いかけた。
 それは違うと思う、前にもっと大きな地震があったのを知っているはずだ、という内容がその後に続くはずだったし、実際少しは言ったと思う。

  だが私は結局、祖母に同調してふすまを閉めた。

 相手が覚えていないことを言っても仕方がないし、以前に大地震を経験したからといって、新たに祖母が抱いた恐怖や驚きは解消しないのである。

 喜び驚き怒り悲しみ、またそれ以外のあらゆる感情は、経験を重ねるごとに新鮮味を失っていくのかもしれない。記憶を失うことは幸せなことだとは言い難いのだけれども、ある意味で、すべての感情が鮮明で印象深いものになることなのかもしれない。
 ただ本人がそれを自覚していないだけなのだ。

  私も知らないうちに、自覚できないほどの記憶を失い、それだけの新鮮味の追体験を行っているのだろう。ちょっとしたことを思い出せずに困ると、そんな気がしてならない。 


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