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愛するとは技術(スキル)である

なんだか昨日は自然体ではなかった。

他者、特に部下の目にどう映るか、どう思われるかといったことが主題化することが多かった。どうもこうも、ただ突っ立って生きているだけで嫌われることもある、それが人生だというのに。

他者が私をどう思うかは他者の領分であり、私にはコントロールできないし、するべきでもない。とはいえ、こんなことはもう重々承知のうえで、それでも昨日は気になってしまった。そういう日はある。つまり、ある程度は理でコントロールできるのだが、根幹のところでは理はあまり効果を及ぼさない。

しっかり寝たとか、美味しいものを食べたとか、家族の機嫌がいいとか、悩み事を抱えていないとか、バイオリズムがいいとか、運がいいとか、そんな色んなことの複合効果が実は大きい。つまり、自分を愛せている状態で、そこに幸せを感じている状態であれば他者はあまり気にならない。完全に気にならない状態にはならないし、ならなくていい。あまり気にならない。これくらいが良い。

ここ数日、自分を大切にできていなかったように思う。それは抽象的な話ではなく、しっかり寝るとか、手を煩わせているバグをどうにかしたいからといって無理をしないとか、そういうことだ。具体的に大切にすることが大事。思うだけはあまり意味がない。具体的に自分を大切にする。それが愛するということだ。具体的であること。それが大事。故に愛するとはスキルの一つなのだ

自分を具体的に愛せるようになれば、他者も具体的に愛することができるようになる。思いはもちろん大切だ。けれど、思いというものは意外と行動や物理的なステータスに影響を受ける。また、思いは不安定だ。揺れるし、変わる。その可塑性が思いの良さでもあるが、弱さでもある。良い思いを持てた時は、具体的行動や状態を作り出すことによって固定化することだ。思いに頼らない。大切にするが、頼らない。そういう振る舞いでありたいと思う。

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