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アバターアディクト

<約1600字>

 ビデオ会議を終え、PCをスリープ状態にすると、真っ黒なディスプレイに人気俳優によく似た顔が反射した。僕がARでまとっているアバターだ。
 実際の僕は本当にどこにでもいそうな平凡な顔なのだが、通話相手はイケメンと会話しているように感じられていただろう。ちなみに通話相手は女性で、オードリー・ヘップバーン似の美人だった。だが、彼女もおそらく素顔は全く異なるはずだ。もしかすると男かもしれない。
 ひと昔前、パンデミックによってテレワークが急激に拡大した際に、ビデオ通話ででアバターを使う文化が広まった。
 もちろん最初はお互い素顔を知っている者同士のじゃれあいだったが、隔離生活が長引くにつれ、あるいはニューノーマルが浸透するにつれ、お互いのアバターしか知らない人が増え、やがて「リアルで会う時もアバターをかぶりたい」「素顔を見せたくない」と感じる人が増えるようになっていった。彼らは『アバターアディクト(Avatar Addicted)』と呼ばれた。
 ウイルスと共存する生活はそれほどまでに長かったのだ。一部の貧しい国で感染を抑え込むことができず、適切な医療や隔離を求めた難民たちが先進国へ避難した。ロックダウンを経験した先進国も水際対策によって再び国内で市中感染が発生することを防ごうとしたが、密入国や国境で働く職員の感染などが後を絶たず、時折、市内でもクラスターが発生するという状況が続いた。
 それが終わる頃には、MRグラスが小型化していて、まるで普通のメガネのような感覚で着用できるようになっていた。アバターアディクトの人々はこぞってそれを身につけた。需要に後押しされ、MRグラスに次いでMRコンタクトレンズが登場し、やがてスマホのような必需品となっていった。今では、それぞれが「見られたい姿」を相手に見せるのがスタンダードだ。生まれ持った美醜に影響されない生き方ができることで解放された人もたくさんいる。一方で、ころころとアバターを変える人もいて、そんな人たちは「K20」と揶揄されたりしていた。また、そのムーブメントを嫌う人たちももちろんいて、彼、彼女らはナチュラリストと呼ばれた。
「終わった?」
 僕の仕事部屋のドアを少し開け、少し前の人気女優に似た僕の妻が顔を覗かせている。子供の頃、画面の向こう側でよく見ていた。
「うん。」
 僕はうなずいて彼女へ歩み寄る。
「たまには外に食べに行こうか。」
 彼女の素顔がこの顔ではないことは僕は知っている。でもそれでいいのだ。彼女が僕にそう見られたいと思っているのだし、僕だって、彼女に素顔を見せていないのだから。
 この時代の人々にとってはそれくらい、アバターをまとって生活することが当たり前のことなのだ。

 僕たちは幸せな結婚生活を送っていた。少なくとも不満はなかった。子供はまだいなかったけれど、どちらかがそれを望んだら話し合おうと約束していた。そして、その時初めてお互いの素顔を見せ合おうと。生まれてくる子供がどちらに似てるか、そんな話がしたいねと。
 しかし幸せは長くは続かなかった。人が運転する車に跳ねられ、彼女は帰らぬ人となった。
 ARやMRの溢れるこの時代では視界に頼らない運転が必須で、基本的に全ての車は完全に制御された自動運転になっている。そのため、歩行者が巻き込まれる事故はほぼない。しかし、時々車を改造して自ら運転する走り屋がいるのだ。そして、彼女はその犠牲となった。

 病院で僕は初めて彼女の素顔を見た。
「こんな顔をしてたんだね。」
 横たわる彼女は、アバターがいらないくらい整った顔立ちに見えた。笑ったら、きっと素敵だろう。
「こっちの顔も、好きだったよ。」
 もし生きているときに言ってあげられたら、君はなんて言っただろうか。



-カバーイラスト:People vector created by freepik

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