見出し画像

実用性を保ちながらいかに継承していくか─村野藤吾設計「近三ビルヂング(旧 森五商店東京支店)」を支えてきたオーナーに聞く|森隆(近三商事3代目) 森正隆(近三商事4代目)

『新建築』2018年4月号はリノベーション特集です.特集にあたり村野藤吾氏設計の「近三ビルヂング(旧 森五商店東京支店)」を87年(2018年現在)に渡り,歴史的建築ではなく,現役のテナントビルとして活用し続けてきたオーナーにお話を伺いました.(『新建築』2018年4月号では作品紹介と共に収録しています)


目次
●度重なる改修
●実用性と保存をどう考えるか
●テナントビルとして持続させていくために

度重なる改修

──近三ビルヂングは所有者である森隆さんの一族,設計者である村野藤吾氏,当時の施工を担当した竹中工務店,さまざまな方の協働によって今日までその姿を保ってきました.まずは,近三ビルヂングの概要から伺えますか?

近三ビルヂングは1931年竣工,ニューヨーク・マンハッタンに建つエンパイア・ステート・ビルディングと同じ年に生まれました.2018年で87年目を迎えます.

滋賀県近江八幡を拠点とする森五商店の東京支店が関東大震災で焼けてしまい,新しい東京支店を建てるにあたり村野先生へ設計を依頼しています.

竣工当初から正式名称は「近三ビルヂング」ですが,村野先生は改修や増築時も依頼当初の「森五商店東京支店」という名前を図面に記していましたね.当時の施工やその後の改修は,すべて竹中工務店が担当しています.竹中工務店とは大阪本町の角にあった森五商店大阪支店の青図に合名会社竹中工務店の印が押されていたことから,明治半ば以降から付き合いがあったと推測できます.また,現在まで設備を担当している三機工業とも少なくとも1956年から付き合いがあったようです.

村野先生に依頼することとなった正確な経緯は不明ですが,おそらく近江帆布を主宰していた祖父である森五郎兵衛が綿業倶楽部の会員であったことから,渡辺節建築設計事務所で綿業会館(1931年)を担当した村野先生とは何らかの接点があったのでしょう.


──竣工当時の建物はどのようなものだったのでしょうか?

今と違って資料を簡単に残せない時代でしたが,幸いにオリジナルの図面や写真がたくさん残っています.構造設計には内藤多仲氏が関わっていたようです.柱のフープ筋は75mmピッチと非常に細かく入っています.おそらく関東大震災後だったこともあり,構造には注意が払われたのでしょう.おかげで現在に至るまで構造的な破綻がまったくなく,その後の改修においても躯体自体への心配があまりありませんでした.

竣工当時の外壁タイルは塩焼きの窯変タイルだったため,お茶碗と一緒で風合いが出て自然にムラがある印象でした.また,エントランスロビーのモザイクタイルは光の反射を柔らかくするため,ドイツから輸入したガラスを一個一個割ってつくったようです.

(上:エントランスロビーより外を見る)

建設当時については当時の森五商店本部の建築委員による毛筆の「建築日誌」というものが残されており,工事の様子がこと細かに記されています.たとえば,松杭ではなく武智杭(既製コンクリート杭)が使用されていたこと,警視庁による検査の様子(当時は建築確認などを警視庁や警察部が行っていた)など当時のことが分かります.当時の1階は銘仙の呉服問屋である森五商店が入っていたので,床が小上がりになっており,いわゆる「座売り」のお店でした.

ブルーノ・タウトが1933年に日本を訪れた時,見学する予定のなかったこの建物を発見し,「永遠の傑作」だと評価したそうです.


──その後の改修はどういうタイミングで行われたのでしょうか?

最初の改修(第1期)は1956年です.当時のテナントとして1932年より日本綿花(後の日綿實業)の出張所が置かれていましたが,日綿實業(現・双日)の東京支社として迎え入れることとなり,新館を増築しています.当時はまだ建築協力金が存在した時代でした.(1958〜59年の第2期では旧館に8階を増築した.)

その次の大きな改修(第3期)は1965年です.発端となったのはキーテナントであった日綿實業が退去したことでした.この出来事により近三ビルヂングはテナントビルとしての方向転換が求められました.この時,2代目の森郁二は村野先生に「ワンフロアで貸せる建物にしたい」と相談を持ちかけました.そして,その相談を受けた村野先生からの提案は次のものでした.

①1931年の玄関ロビーをそのままに,新館側に延長し広々とした玄関ロビーを形成する
②玄関のエレベータ2基を高速化し(150m/min)新館3号機の隣に移設し,エレベータホールをビル中央に配置し,江戸通り側に有効な貸室面積を確保する
③上記に伴い,階段,トイレを移動し,新館,旧館の共用部レイアウトを再構築する
④各階にエアハンドリングユニットを設置し,セントラルから各階空調に変更する
⑤貸室内の不要な間仕切りは撤去し,極力広く大きい貸室に変更する
⑥テナントより増加する電力要求に対応し,新たにEPSを設ける

村野先生はこの改修が完了した時,「これでこのビルはこの先30年間は大丈夫でしょう!」と言われたそうです.確かにこの時の改修が,近三ビルヂングが現在まで残るために大きな意味を持つものとなりました.たとえば,エレベータを移動したことで生まれたマシンハッチは設備更新時の重要な動線となり,これまで何度も設備の更新をすることができています.EPSに関しても当時電力需要の増加に追いついていなかったようで,そのタイミングでEPSを増やしたのはよい判断でした.


──とても冷静で現実的な改修だったのですね.

そうですね.改修を決断した2代目の判断も重要なものでした.1965年の改修の価値は,2代目が賛同したからこそ生まれ得たものだと思います.


実用性と保存をどう考えるか

1992年の第4期改修では,外壁タイルの改修が大きなトピックでした.1979年から外壁タイルの落下事故がありエポキシ樹脂注入により対策を一度は完了しましたが,1985年に再度落下事故が発生し ,危険防止用のネットに覆われた中で建て替えか改修か長期間の検討をすることになりました.そこで,タイルの貼り替えをすることに決定したのですが,往時の4丁掛け(120×227mm)タイルは当時の時点で既に貼る技術自体が失われてしまっていました.また,もともとのタイルである塩焼きの窯変タイルは既に生産されていなかったので,もとのイメージを壊さないように4種類の色違いの2丁掛け(60×227mm)タイルを貼り分けるという工夫を施しました.


──現在のタイルの色はオリジナルではなかったのですね.この改修は村野先生が提案されたのでしょうか?

村野先生も外壁の改修について何度も検討されていましたが,その最中に亡くなってしまいました.タイルを喜んで変えられたのか,そうではなかったのか今となっては分かりません.外壁については相当悩んでいたようです.また,サッシについても改修の必要性が生じていました.ただ,上下動の鉄サッシの再現はコストや性能を考えると実用的ではありませんでした.そこで,見た目を変えないように開閉可能で見付けの細いエルミン二重窓(二重窓の中にブラインドを入れた断熱性や気密性に優れたサッシ)を採用することにしました.また,窓回りのタイル貼りはアルミキャスト鋳物で置き換えています.

これらの改修は建物の見た目に関わる,とても重要な変更ですが,2代目が「建物の姿を保存したままの改修をする」という決断を下したのは,東京都から東京都景観条例 第29条1項の東京都選定歴史建造物の選定への打診を得たことがきっかけでした.改修により,1999年に窓を除いて,東京都選定歴史建造物に選定されました.また,1994年にはBELCA賞を受賞しています.

この時の改修はサッシの変更など建築の保存という観点では適当ではないかもしれません.しかし,この建築がテナントビルである限り実用性を無視することもできません.そうした思いが結果として,省エネなどの実用性を持ちながら当時の姿を今日まで保存できていることに繋がっているのだと思います.

東京駅丸の内駅舎の保存・復原(『新建築』2012年11月号)に責任者として携わった田原幸夫氏は,著書『建築の保存デザイン(豊かに使い続けるための理論と実践)』(学芸出版社,2003年)で「置き換え」理論を提唱されています.

これは「昔のものを表面的に再現して実用性や快適性を二の次にするのではなく,オリジナルのコンセプトを継承し,実用に耐えるように置き換えて残さなければならない」というものです.著書の中では事例として近三ビルヂングがパリのマルモッタン・モネ美術館(1840年)と共に取り上げられています.そうした評価をいただけるのは大変ありがたいことです.


2006年の第5期改修では,当時,話題となっていた「耐震」に対応するための改修を行いました(2006年1月に改正耐震改修促進法が施行).この時は1956年の増築時に採光と換気の目的で設けられたライトコートを,既に役割を失っていたので耐震コアとすることにしました.そのおかげでテナントに退去を申し出ることなく,工事を行うことができました.そして,2011年の東日本大震災を受けて,2014〜15年の第6期の改修では.再び「耐震」がトピックとなりました.壁を打ち増してもとの外観の印象を残しつつ耐震化するなど,竹中工務店の方に構造・設備面でいろいろと提案していただきました(『新建築』2018年4月号で解説しています).


テナントビルとして持続させていくために

──このビルが現在までにもとの姿をほとんど残しているのは,時代ごとにどのような継承をしてきたからなのでしょうか?

村野先生の1965年の改修の提案を見ると,すごく実用的なことを言っているなと思いますが,時代ごとに図面を見ていくと,時代の状況に対応しようとした当時の改修の提案に納得します.たとえば,旅館などは建物を継ぎ足すことによって状況に対応していきますが,この建物も同様に継ぎ足しや変更を繰り返しながら時代の要請に対応したからこそ,使い勝手の悪いビルへと落ちこぼれずにすんだのかもしれません.第4期改修(1992年)で採用したエルミンの二重窓は高い熱貫流率性能・防音性能を持っており,現在の省エネの取り組みに貢献しています.また,ライトコートは耐震コアとして再活用することができました.村野先生の提案,2代目の判断,竹中工務店,三機工業の協力があったからこそ,こんな偶然も起きたのでしょう.


──今後はどうされていく予定なのでしょうか?

日本橋エリアでは今度さらなる開発が予定されています.この先10年,15年と状況が変わっていき,その中でテナントオフィスビルとして生き残るのは大変になるでしょう.

(上:現在の様子)

だからこそ,テナントに入居されている方へのサービスをより向上させていかなければなりません.現在はアメリカ発の環境性能評価システムであるLEEDの取得に取り組んでいます.LEEDは建物内の効率的なエネルギー利用,水の消費量の削減などいくつかの項目への評価により与えられるもので,近三ビルヂングは上から2番目の水準にあたるLEED GOLDの取得を目指しています.テナントに入居される方も将来的には環境性能を判断基準にする方が増えるでしょう.その時に時代に置いていかれないように,LEED認証取得の事例が増えている海外の動向などを勉強していくことが大事だと考えています.

近三ビルヂングは築87年とは思えないほど,使い勝手がよい建物ではないかと思います.この建物は博物館でも資料館でもなく化石でもありません.歴史的建造物として観光客を呼び込むのではなく,テナントにいかに喜んでもらえるかが問題です.近三ビルヂングはオリジナルの建物の姿を生かしつつ,次の時代のニーズにも対応することができた幸せなビルだと思います.今後ともそのための努力を惜しまないことが最も重要な課題だと考えています.

注)近三ビルヂングは一般のオフィスビルであるため,内部非公開となっております.

(2018年1月29日,近三ビルヂングにて.文責:本誌編集部)



掲載しているのは

巻頭論壇「未来に向けた時間の継承」では建築家の堀部安嗣さんと建築史家の加藤耕一さんに「近三ビルヂング」を実際にご覧頂きお話して頂いています.そちらもぜひご覧ください!

Amazonはこちら


『新建築』2018年4月号ラインナップ


港区立郷土歴史館等複合施設(ゆかしの杜)

近三ビルヂング(旧 森五商店東京支店)

北菓楼札幌本館

太陽の塔内部再生プロジェクト

東京タワー平成の大改修

神奈川県庁新庁舎免震改修+増築
神奈川県庁本庁舎・第二分庁舎改修

高知県立坂本龍馬記念館 新館・既存館

宇和米博物館 LOCAアクティベーションプロジェクト

千鳥文化

大津百町スタジオ

海野宿滞在型交流施設 うんのわ

秋田オーパ

半蔵門ミュージアム

ものづくり創造拠点 SENTAN

御堂ビルイノベーションスペース整備計画

武蔵小杉のオフィスビル増築


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?