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特集:杉原千畝氏のフィンランド在勤時代(2) 陸軍の思惑と杉原氏の行動

杉原氏のフィンランド赴任前の1937年1月15日、日本陸軍フィンランド駐在武官の加藤義秀(かとう・よしひで)少佐はフィンランドの公安警察である「刑事中央警察」(EK, Etsivä keskuspoliisi)本部を訪れ、フィンランドにおける亡命ロシア人やウクライナ人を対ソ連工作に活用できないか、内密に打診した。

しかし、公安警察側はこの提案をやんわりと拒否し、数日後には在フィンランド・アメリカ公使館の公使などを招いて、日本陸軍から対ソ連工作への協力の打診があった旨を暴露している。

日本陸軍フィンランド駐在武官の加藤義秀少佐(左端)と一家。(1938年、武官公邸にて撮影)
提供:ロニー=ロンクヴィスト氏(Herr. Ronny Rönnqvist)

日本陸軍は杉原氏のヘルシンキ赴任と前後して、欧州における対ソ連工作に本腰を入れ始めていた。前年の1936年11月25日に締結された日独防共協定、そして公にはされなかった1937年5月11日の日独軍部間のソ連情報交換協定など、悪化するアジア情勢と欧州情勢の最中、ソ連に対抗するため、ナチス・ドイツとの緊密な連携を模索したのがきっかけだった。

1937年2月11日には、東京においてドイツ軍日本駐在武官オットが日本陸軍参謀本部第二部(情報部門)と会合を持ち、4月23日には日本陸軍の部内会議にて、田中新一(たなか・しんいち)陸軍省軍務局軍事課長が「(ソ連圧服のため)ヨーロッパにおける対ソ連謀略の促進」の話が出た事を記録に残している。

日独共同のソ連に対する戦略構想は1935年夏頃には具体的な計画が出来上がりつつあり、内モンゴルからアフガニスタンにかけて航空基地を建設し、開戦と同時にソ連領内の工業地帯を爆撃するという「防共回廊」構想がまずあった。

しかし、1936年に綏遠事件の敗北によって日本の関東軍が内モンゴル以西への進出が不可能となり、アフガニスタンも英国やソ連の外交圧力には逆らえず、国内で対ソ連工作を行っていた日本陸軍武官を国外追放するなど、これは計画倒れに終わった。

2022年現在、杉原氏がヘルシンキ在勤時代に単なる外交官としての職務だけでなく、対ソ連情報収集にあたっていた事は各種文献で明らかになっているが(ソ連側史料では杉原氏がソ連国境視察などを行っていたとある)、フィンランドに残る、限られた一次史料から具体的な内容を精査するのは極めて難しい。

1つ確実なのは1937年1月に、日本陸軍への協力を拒んだフィンランド公安警察が杉原千畝氏とは協力関係にあった事だ。

具体的には、1938年夏に満州国へ亡命してきた駐モンゴル・ソ連軍砲兵将校のヒャルマル=フロント(Hjalmar Front)の外見について、フィンランド公安警察が杉原氏に直接確認している。フロントは民族的にはフィンランド人であり、満州国への亡命後にフィンランドへの帰国も検討していたという話なので、公安警察側としては面識がある人物に身元確認用の情報を問い合わせたという形だろう。

公安警察側のレポートでは、杉原氏がフロントの弟とも面識がある事が語られており、駐モンゴル・ソ連軍の経歴が長いフロントとは杉原が満州国外交部にいた時期に関係が出来たとしか考えられない。

また、1938年11月30日に、フィンランド公安警察は杉原氏から「日本における共産主義運動」に関するレポートを受け取ったと報告している。両者間で定期的な会合があった事を示唆している。

ヒャルマル=フロントのモンゴル・満州国時代の話は、2022年初めに出たばかりのこちらの本(「モンゴルと満州国におけるヒャルマル=フロント少佐 1937-1945」)に詳しい。著者のロンクヴィスト氏と筆者は旧知の仲だが、世界で初めて、第二次大戦終戦後のフロントの逃亡劇の詳細を明らか(上海で難民に紛れて米軍に保護してもらった)にした事に敬意を表する。

そして、1937年末から38年初頭にかけて、フィンランド各紙を代表する新聞特派員として日本と中国を訪問したクルト・マルッティ=ワレニウス(Kurt Martti Wallenius)退役陸軍少将の件もある。ワレニウスは加藤義秀少佐が手配した「サクラ」であり、日中戦争(1937年7月勃発)における日本陸軍の戦争犯罪の数々に激昂した国際社会の中で急速に反日世論が高まる中、「日本の正義」を宣伝させるために遥かアジアまで送られた人材だった。

ワレニウスは東京において、「ロシア・ファシスト党」(RFP, Russian Fascist Party)の東京支部長であるヴァシル・ペトロ―ヴィチ=バリコフ(Vasil Petrovich Balykov)と密かに会談している。

※ロシア・ファシスト党とは、1934年1月7日に日本陸軍ハルビン特務機関によって創設された組織で、1931年の満州事変時に日本の関東軍に協力してハルビンで蜂起した在満州ロシア人らを主な構成員としたものだった。しかし、この組織は資金の問題を抱えており独自の資金調達を余儀なくされ、日本陸軍とは協力関係を保っていたが、組織の性質としては日本への完全依存というわけではなく、独立していたといわれている。

ロシア・ファシスト党(RFP)の機関誌「ナーツィヤ」。ロシア・ファシスト党は反ユダヤ主義を前面に打ち出し、ナチ党の思想の影響も強く見られた。

そして、このバリコフとワレニウスの会談を手配したのが、在フィンランド日本公使館の杉原千畝であったとバリコフ自身の手紙で明記されている。先述のフロント、バリコフと近現代日ソ関係史の大物らの名前が次々に出て来たのを見ると、杉原氏の亡命ロシア人人脈についてはかなり広かったとみて間違いない。

ワレニウスの日本・中国旅行を手配したのが加藤義秀(日本陸軍フィンランド駐在武官)で、日本におけるロシア・ファシスト党との密会をお膳立てしたのが杉原千畝である。

杉原千畝と加藤義秀の関係性についてはいまだによく分かっていないが、杉原自身も在ヘルシンキ武官室の行動をある程度把握していたと見て、間違いは無いだろう。

参考文献:
1) Tajima, N.(田嶋信雄)Stratagem of the Japanese Army against the Soviet Union. (Nihon Rikugun no Tai-So Bouryaku「日本陸軍の対ソ謀略」). Yoshikawa Koubunkan, Tokyo, 2018.


2) Kawada, M. (川田稔)History of the Japanese Army, Volume 2 (Showa Rikugun Zenshi 2「昭和陸軍全史2」). Second Edition, Kodansha, Tokyo, 2014.

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