[自己肯定感を回復させるまで]自己肯定感を低くさせていた考え方

Shohkoです。

今日は自己肯定感を低くしていた考え方についてのお話。

自己肯定感がどん底だった時。
毎日生きていたくないと泣き暮らすこと数か月、でもここで死ぬのは癪に障る!何も達成せずにこのまま死ぬのは嫌だ!と思い立ち、私にルーシー・ダットン(タイの自己整体法/タイヨガ)を教え、タイマッサージのセラピストになることを勧めてくれた師のタイマッサージ講座を受けることにしました。

タイマッサージはすでに数年間お客様の施術をさせて頂いていたけれど、ヒーリングアートを体現する師のタイマッサージは私にとって別格で、それを習得することは夢のひとつでした。

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↑研修中。顔面から疲れが滲み出て今より老けて見える。。。

有休を使い苦痛な仕事から逃れ(いつも嫌々仕事をしている時間に楽しいことをするって、開放感も相まって物凄く幸せだった)、敬愛する師から研修を受けるうちに、夢が叶った嬉しさと、師との楽しい時間のおかげでだんだんと精神状態が安定。
そして生きる気力が戻り始めたころ、研修中の雑談で
実は少し前までもう生きていたくない、誰か一思いに殺してくれないかと思っていたけど、この幸せな時間のおかげで、また生きる希望を持つことができました。と師に打ち明けました。

するとその数日後、私が講師として所属するタイのルーシー・ダットンの学校の校長から、タイから日本に帰国するので会いましょうと連絡が。

実は優しい師が心配して、校長に私の状況を連絡してくれたいたのです。
*師も同じ学校の講師。

そしてタイでの合宿以来の校長との久々の対面。
ひとしきり挨拶を終えたあと、校長からこんな問いが。

自己肯定感低いよね。っていうかもはやないレベルだよね。
それはどうしてそうなるか考えたことはある?その鉄仮面を外せない理由。 
※校長など限られた人以外の前では感情を殺してお仕事マシーンと化していたので鉄仮面と呼ばれていました。

私:
私には秀でた取り柄が、取り立てて何もないからです。
仕事で大変な思いをするのも、私に魅力や実力がないから。
だから面倒なことを押し付けてもいいと思われてしまう。
私には生きるに値する価値がないんです。

校長:
それだと秀でた特技がない人は生きていてはいけないってことになるよ。でもそうではないでしょう?
ではなくて、どうしてそうなるかを考えてみて。

いやいや校長、そうは仰いますけども。ここまで頑張ってこの結果って、私に魅力がない以外に答えなんてあります?それにみんなは色々持ってるし!と悩み続け、答えては、30点!えーーーヒントください!!を繰り返すこと数時間。ようやく80点を取り、やっと教えてもらった答えは比較。

誰かと比べて価値がない。実力がない

自分ではなく他所ばかり見て比べては [ ない ない ない ]

子供の頃は超マイペースでマイウェイだった私も、大人になるにつれ自己肯定感がどんどん低下していき、また社会に出てたら「常識」に則って目立たずに生きる方が楽で賢いと思ううちに、比較する癖が付いてしまっていたことに気づかせてもらえた瞬間でした。


自分の物差しと他人の物差し

社会に出て組織に属すると、上司や取引先といった他者からの評価がそこでの自分の価値となります。組織の中で仕事をするならそれが当たり前。
しかしそれは、あくまでその組織の、その時の業務における評価であり、
自分の一部分についての、その時たまたま上司となった人からの評価。
自分自身の存在価値についてではありませんし、自分の価値は周りからの評価のみで決まるものではありません。

しかし、自己肯定感と自尊感情をどんどん無くしていった当時の私は、自分の物差しと他人の物差しが違う事を忘れ、評価されなければ生きる価値がないと思い込み、ミスを注意されれば「このままでは存在を否定される!生きている価値がなくなる!」と怯えて、こんな風に考えていました。

・あの子がここまでならば、価値のない私はもっとやらないといけない。
・私は容姿も頭もイマイチなんだから、それを別の何かで埋めなければならない。

会社での評価なんて、尊敬できないどころか軽蔑している上司からの偏見まじりのジャッジだとは理解していても、だからこそ、こんな人にさえ評価されないなんて、自分は一体どれほど出来ない人間なんだ!とどんどん間違った方向に進んでしまい、終いには目立たないようにと装着した鉄仮面が外せなくなり、人前では感情を殺すのが当たり前になり。自分が何者かさえ分からないまま世の中の価値基準の中で苦しむ。。。
というなんとも滑稽な状態になっていました。。。





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