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「花沢忍あれこれ」 相澤義和 (写真家)

私は結構な花沢さんファンなので、花沢さんの事を知ってからこれまでの個展は全部ではないけど足運んでます。
花沢さんの住んでいる街を案内してもらいながら散歩したり、アトリエにもお邪魔して1日まるまるカメラを向けさせてもらったこともあります。あんなことやこんなこと、そんなことまでの花沢さんの半生をたっぷりと聞かせてもらったりもしました。
花沢さんは画家とか表現者とか、というよりもひとりの人間として、日々様々な出来事に対してまっすぐ素直に向き合いその全てをぶつけて描いてる人。私にはそう見えています。
今回そんな花沢さんのことを書くわけなので、その場しのぎのテキトーな事を書くわけにもいかず、小手先のテクニック(そんなん持ってないけど)を使わずに私も自分にまっすぐこの文章を書かにゃいかんと思い、締め切りを過ぎたにもかかわらず、この期に及んで心をしっかり綺麗にしてから書き始めようなんて思ったりもしたんだけど、もう私自身が長いこと邪念の塊というような人生を歩んできた根っから浅ましい人間なものですから、心を澄ませて綺麗にしようにも一向に浄化される気配がないんですね。良く見られたい、かっこつけたい、上手いことまとめて頭良さげにみられたい。文章書くだけなのにこんなによごれた自分が出てくる。
それだけ人は、少なくとも私はなにかを表現したいと思ったときに壮大で余計な自意識に邪魔されるものだと思うんです。
私は写真家ですから、絵画よりなんぼか簡単な(と思っている)写真行為なのに、シャッター押すとき、それはそれは巧く写したろみたいな汚い我欲にまみれちゃって、撮ったはいいけど写った写真には自分の邪念しか写ってないなんてことが多々あるんです。
自分の中の感情が濁りなくまっすぐ表れて成立している状態まで持っていくことに、シャッター押すだけの写真行為ですらなかなか辿りつかない。もちろんこの文章もそうであるように、感情をまっすぐ表すというのはできそうでできないとても難しい作業だと思うのです。それなのに、花沢さんは写真よりも遥かに複雑なプロセスを経る必要がある絵画でそれをしているんです。数々の作品からはそういった自意識からくる邪念を感じさせない。もちろん折々に訪れたであろう苦悩は見え隠れしてますよ、でもそのたまに見せる苦悩すらなんかもう美しい。
感情っていう表現でいいんでしょうか、自分の中から湧き出てきたもの、それを描く一連の作業を想像すると邪念なんか遥か遠くに捨て去らないと絵画って一向に描き進まないんじゃないかなって思うんですよね。じゃないとあんな美しい絵が書けるわけがない。それでいて自分が生きる上での欲は見事に美しく描き切ってるように感じるんです。なんなんでしょうね、一体どういうことになってるんだろう。
努力では到達できない感じ、嫉妬ですそれは。

以前撮影で花沢さんのアトリエにお邪魔した際に、花沢さんが幼少期に描いたっていう絵を見せてもらったことがあったんです。結構乱雑にリヒトラブかなんかのファイルに入れてあって、それも重ねて入れてあったりするのでくっついてたりして。それらの当時で言うところのお絵かきの数々をその時のそれぞれ感情や状況なんかを一枚一枚丁寧に説明してもらってるうちに気づいたんです。

「今と一緒やんけ」

そうなんです。花沢さんの絵に向かっていく根本的な姿勢がまったく変わってないんです。すごくないですか。
感覚的に言うと、今大人になって描いている絵画も幼少期のままの花沢さんが描いてるっていうんですかね。もちろんその頃から今に至るまでそれ相応の大人な経験をしてきたはずなのに、根本にある「自分」を変えずに今に至っている。
もちろん正確に言ってしまえばその間、細かい技法っていうか描き方みたいなものはいろいろと変化してきたんでしょうけど、花沢さんの半生、作品の歴史を観ていくと、出来事を素直に感受し積み上げた経験から発生する繊細で微妙な心のグラデーションもしっかり絵に表してくれていてるんだよなって観て感じてしみじみじわじわふむふむしたりするんです。
今後もずーっと幼少期の花沢さんをそのまま思い起こさせるような、濁りがなく悲しくてあたたかい、なんだかんだうちらって生きてるんだよねっていう作品を積み重ねていって欲しいなって思います。

いやもうほんと、うらやまうやまいだいすきです。


2020.1.10
相澤義和


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