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その人らしさ

ひとりひとり違う「その人らしさ」が認められていること。
幸せみたいなものの定義があるとすれば、
シンプルにここに尽きる気がする。

「その人らしさ」が受容される。
周りにだけでなく、自分自身でもそれを受容できる。
いや、順番としては自己認識が先だろう。
まず自分で自分を受容する。次に他人だ。

「その人らしさ」は世の中の常識と同じとは限らない。
むしろ多少は逸脱するものかもしれない。
常識、というのは人や社会が規定するものなのでどうしても狭く、
それに「その人らしさ」が当てはまらないことも普通にある。

そういうときに普通は思う。
「自分はおかしいのでは?」
その通り。おかしい。
でも自分だけじゃない。誰もがおかしいのだ。

というより、誰もがそれぞれの
「その人らしさ」を持っているのが普通なのだから、
おかしいも何もないのだ。

「自分自身」というのは現実であり、
ここでいう社会(常識)というのは幻想なのだ。
幻想だから実体がない。
実体がないから、そこには個々人のバイアスがかかる。
バイアスとは引け目だったり、自己卑下だったり、そういうことだ。
つまり、ありもしない理想に対して
「自分は当てはまらないからダメ」と思ってしまう。

そんなわけはない。

ダメ、というのもまず意味がわからない。
なぜなら自分はそこにもういるのだから。
その「いる」ということは圧倒的なリアルで、強い。
ダメかどうかというのは人が決めた社会的規範に過ぎない。
そんな脆弱な決まりごとに自分から寄せていくことはない。
「ダメかどうか」という指針自体が意味がない。

生きづらさ、とはつまりそういうことだと思う。
自分というリアル、自分という事実をそのまま認められなくて、
本当は存在しない謎の縛りによって形にはめようとする。
当然そんなものははまらないから、常に心の居心地が悪い。

そもそも他人もみな何かしら変なところはある。
見せないようにしているだけだ。
もちろん私もある。
ない、という人もいるだろうが、
掘っていくとそんなこともなかったりする。
ない自分でありたいという心が、
自己暗示的な姿勢になってそう言っているだけだったりする。

心は本当はどこまでも自由なのに、
360度の視界が「こっちだけを向かなければいけない」と
狭められてしまう。
そうしなければ…という他人の干渉によって、
自分の人生の視界や行動範囲までが狭まっていく。
そんなのに与しなくていい。

「その人らしさ」というのは変なのだ。
でも変でいい。
その自己受容からはじめよう。


ここ数ヶ月、ずっとお気に入りな曲をご紹介。
ドラマの挿入歌だったものだが、
曲調も声も歌詞も世界観もすべてがいいと思う。
静かな曲なのだけど、とても昂ってくる。
タイトルの普遍性も含めてかなり好き。


こちらは歌詞の日本語意訳版。


それでは皆さま、どうか良い日曜日を。

やぶさかではありません!