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鉄パイプが貫通した乗用車

学生の頃、法医学の講義で見たいくつかの写真が忘れられない。

5メートルほどの鉄パイプが走行中のトラックの荷台から30本近く滑り落ち、後ろを走っていた乗用車に突き刺さった写真がその一つだ。フロントガラスから後部座席まで貫通した鉄パイプは赤黒く染まり、とてもショッキングな画像だった。

それ以来、トラックの後ろを走る時は必要以上に車間距離を空けるようになった。多少後ろの車に煽られても、命には代えられない。

他人事ながら、鉄パイプや荷物をのせたトラックにピッタリついて走行する車を見かけると、勝手に心配して一声かけたくなった。その荷台の紐が緩んだら、一瞬でアウトだよ、と。

東京への移住をきっかけに車を手放したが、今でもたまに串刺しになった乗用車のことを思い出して身震いする。

例えば、工事現場の下を通る時。自分が通るのを待ち構えていたかのように崩れ落ちる足場。両手で頭を押さえても、あまり意味はないだろう。鉄パイプが縦になって降り、クッキー生地をくりぬく型抜きのように、私の体をえぐろうとする。

工事現場の下にいる滞在時間を少しでも減らすために走り抜けようとするが、その地面を強く蹴る衝撃で鉄パイプの接合が外れてしまったら、とも想像して足が止まる。結局は工事現場からできる限り離れて静かに歩き、いつもの日常に生還する。

日々に潜む危険を恐れながら生活をしていると、そんな危険などまるでないように振る舞う人を羨ましく思うこともある。先で言うトラックにぴったり追走する人や、工事現場の真下を平気な顔で歩く人たちだ。その差はなんだろう、と考えた時に、知っているか知らないかの差が一番大きいのではないか、と思った。

私は鉄パイプが貫通した人を授業で見たことがあるから、その恐怖をリアルにイメージできる。そうでない人にとっては、工事現場や荷物を積んだトラックはただの風景であって、それが暴力性を秘めていることを疑いもしない。


こんな短歌がある。

運転手一人の判断でバスは今追い越し車線に入りて行くなり
奥村晃作

この短歌を読むまでは、バスに乗っている間、運転手に命を預けていることに全くの無自覚だった。バスは当たり前のように安全で、無事故で行き先まで届けてくれるものだと思っていた。

けれど、時速四十キロで車道を走るバスの中で、危険性が全くないとは言い切れない。運転手は寝不足で集中力を切らしているかもしれない。時刻表に遅れていて、焦った運転をしているかもしれない。これまではそんな運転手にバスの行程の全てを委ねて、ボケェっと窓の外を眺めていたのだ。

バスに乗るたびにこの短歌を思い出してほんのりとした緊張を感じる。


授業で見た写真でも、短歌でも、その危険性に気がついてしまった以上、杞憂と知りながらもその危険性を考えずにはいられない。

ほんのわずかな危険性を避けるために、バスに乗ることをためらい、工事現場を遠回りして、必要以上に車間距離をあける。

今後もこの無用な行動はどんどん増えてゆくだろう。生き抜くための行動と思いながら、生きにくくなっていく人生の行き着く先はどこにあるのか。

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