2.助走期間⑤

妊娠、出産のために休学していた大学に復学するにあたり、
すでに留年して4年は超えていたので、親から「それ以降の学費は自分でなんとかしなさい」と言われた。

大学に通いながら学費、住居費、生活費、夫に負わされた借金の毎月の返済、そしてできるだけ会いに行きたい、娘に会いにいくための飛行機代などを稼ぐためには、当然ながら、普通の仕事では到底不可能だった。ずいぶんと悩んだ末、普通の風俗ではわたしのようなすこし年齢のいった(当時22歳だったが、それでもその業界では年増のほう)、おとなしめの人間は受けないだろうというのと、自分自身の相性、それから大学で専攻していた文学でかかわりもあったことから、SMクラブで働くことにした。そう簡単にいっても、飛び込むにはずいぶん勇気がいったし、いやな思いも、また貴重な体験もさせてもらった。おかげで無事、2年かかって大学を卒業できたし、最後の半年は子どもも呼び寄せて(親から「もう限界だから、引き取って」と言われたこともあり)一緒に過ごした。子どもも呼び寄せて働きにくくなるな、と思っていたころに、縁があって、パトロンがついた。結局、あまり好きになれず3か月ほどで関係は終わってしまったけれど、つきあっているときはお手当のほかに上等な服や家電など買ってもらい、ふつうのひとは行けない店にも連れて行ってもらえて、貴重な体験ではあったし助かったけれど、じぶんは愛人業はできないなと、しみじみ実感した。

まもなく卒業、という頃に就職活動を開始したけれど、惨憺たるありさまだった。
いまになって、わたしらの世代はたいへんな就職難で、わたしのような卒業時に25歳で子持ちという、不利な条件がないひとでさえ、就職が大変だったと知ったけれど当時はともかく、年齢と子持ちということで、さんざんな扱いを受けたし、言いたい放題いわれて悔しい思いをした。ようやく、シングルマザーや韓国人、リストラされた男性といった、「ほかで雇ってもらえない」ひとたちを集めたかなりクセのある企業に採用されたものの、ずいぶんひどいところだったので、「ほかにわたしを拾ってくれるところはないだろう」と思いつつ、そこではどうしてもやっていけないと思い、辞めた。英語教材を販売する会社なのに、幹部男性陣、とくに大阪でトップだった、もと刑事だったという限りなくやくざに近そうな「部長」はかなりのもので、刑事特有のカマカケだとか、強い態度で相手をねじこむとか、ひとの心の機微なんてわかりそうもないおじさんだった。辞める、辞めない、という話で直談判に行ったとき、全然関係ないのに、当時つきあっていたアメリカ人男性の電話番号をききだして目の前で部下にそ知らぬふりをして電話かけさせて真っ青になるわたしの前でにやにやして、自分の知り合いの日本人女性とアメリカ人男性が結婚しているが、男は女性の財産目当てなだけだ、そういう日本女性を我々は守ってやらなあかん。「それが日本のサムライってもんだ」などと言うので心底あきれた。

結局、直談判しにくる度胸を気に入ってもらえて、その「部長」直属で雇用、ということになったけれど、帰宅してどうしてもあの言動が許せず、また若くて世間知らずだからといえ、おめおめと個人情報を話してのせられた自分も悔しくて、「部長」に電話して「やっぱりやめときます」と言った。
「篠木。俺があのとき男に電話したからだろう」
「いえ、そんなことありません。結局、親から田舎に帰ってくるように言われたもので」
とさわやかに切り返すと
「そうか。じゃ、元気でな!」

その後、ずいぶん苦労はしたけれども、英語を使う海外チームの人員募集、という京都のちいさな会社に正社員としてなんとか採用してもらえた。

子どものころ、優秀でよい子の姉に勝てた、唯一の英語。
それもあり、英語がずっと好きで、英語を使う、英語にかかわる仕事にできればつきたかったのだ。

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