2.助走期間④

病院に駆け付け、父親の病室にはいって駆け寄り、
父の手を握って「ごめんね、ごめんね」とお互い涙を流した。
あとから、
「なんか、俺が悪いことしたような気分だったわ」
と夫にすねられた。

夫はわたしを一週間ほど実家に置いていくことにし、
さきに一緒に来たふたりと車で京都に帰っていった。
来るときとおんなじ手口で、高速を降りるときに
「すまんなあ、タバコ吸おうと思って車とめて外にでたら、ぼうっとしてて、通行券、風で飛ばされてしもたんや!」
と、怖いおじさんだし、まだそれが通る時代でもあったのでしょう、言い訳が通って一番ちかくのインターから入ったといって最小料金を払って出たらしい。

一週間ほど滞在した実家で、ある日病院にいくと、母が仲良くしている医者の奥様がおられて、挨拶したら母から見えないようにぐいと腕をつかんで
「あなたよく、戻ってこれたわね」
と言い、そのあとは何事もなくおほほと過ごしていたからこえ~、と思った。

「まともに育てたつもりなんですけどねえ」
と、出奔する前の平和な大学時代、友達と実家に遊びにいったときに友達に言ってたくらいだし、
「自分はきちんと育てたつもりなのに、恩をあだで返した娘」
をおおいにアッピールしてるんだろうなあ、まあ無理もない。

けれど父は素直によろこんでくれ、毎日病院に通って足裏マッサージしていたら、みるみるよくなっていき、わたしが京都に帰ったあとに、当時最先端で体に負担の少ない医療を受けることができるようになったそうで、その後、コレステロールたっぷりだった外食一辺倒の食生活を見直し、体にやさしい食事をこころがけ、それまで以上に自分を大事にするようになり、あれから25年以上たったいまも元気であちこち飛び回っているらしい。

自分の周囲にそんなひとがいなかったので想像だにしていなかったが、「にいさん」は一緒になった当初はやめていたらしい覚せい剤に再び手を出していたらしい。在日韓国人で小さいころから差別され、ろくに学校にも行かずお定まりのようにちんぴら、やくざ、破門・・・で実家のおかあちゃんに食わしてもらいながらチンピラのようなことをしてきて、若い嫁ができたからと頑張って解体業に精を出そうとしたもののうまくいかないことも多く、そうなるとまたついつい戻ってしまうらしい。いや、結局依存症なんてどんな理由つけても再開するものなのだろうけれど。
最初はどういうきっかけでだったか忘れたけれど、夫が覚せい剤をしていることに気づき、見てみると肘内側には「ここに差し込んでください」とばかりに太い針の穴があいているのだった。覚せい剤を体から抜くために一週間、国交回復したわたしの実家に泊めてもらったりしたこともあったけれども、簡単にやめられるものでもなく、思い付きに振り回される生活、過度のマザコン、いまでいうモラハラ・・・実家から「別れるなら、手伝う」と言われて何度か別れようとしたものの、自分も心弱くてついつい戻っては実家に迷惑をかけること数回、ついにまだ1歳の娘が39度の高熱ではぁはぁ言ってるのにシャブでイライラして
「こんなガキ、殺してしまえ!」
と悪鬼の形相で叫んだり、
わたしに暴力は振るわないものの、イライラしたら部屋のものを壊し、ガラスの扉を割ってガラスの破片が飛び散っている床を無邪気にハイハイしようとする娘を慌てて抱き上げて、
「この子のためにも、逃げ出さなければならない」
と肝に銘じた。

今回は本気で、事前に計画し、ワンルームの部屋を探して契約し、すこしずつ、必要品を移して夫がわたしの名義でローンを組み、それを支払わなくなったために呼び出された裁判所に送ってくれた日(自分は付き添わず、わたしひとりを行かせた)、裁判所前でバイバイと手を振って別れ、簡易裁判が終わると数時間前に預けたばかりの娘を昼間里親に迎えに行き、そのまま実家に連れて行って預け、自分は京都に戻って大学に通い始めた。

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