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モデラートの呼吸──アントワン・タメスティ&マルクス・ハドゥラ ほか『Schubert: Arpeggione & Lieder』【名盤への招待状】第12回

 楽譜の冒頭にModerato(モデラート)と記されているとき、演奏者はそれを、「中庸の速さで演奏するように」という指示として受け取る。あるいは、Allegro moderato(アレグロ・モデラート)などのように、それがほかの速度表記と併せて書かれている場合には、前に置かれた言葉の指示する速さの程度が控え目であることを意味していると捉える。
 この文章に目を通してくださっている方々は音楽に詳しい人が多いだろうから、何を今さらと思われるかもしれない。しかしよく考えてみると、その意味するところは指示としてはかなりあいまいなものだ。「中庸の速さで」「程よく快速に」。いったいどのくらいの速さを作曲家は想定していたのか。速くもなく遅くもなく、と言われると、速い遅いをはっきり指示する語よりも主観が関わり、可変的であるように思える。世の流れの速い現代という時代においては、たとえばロマン派時代に考えられていたモデラートで演奏すると、現代ではアンダンテくらいに感じられてしまう、というようなことになるのだろうか。いや、古い巨匠たちの録音から類推してみても、演奏テンポは現代より昔の方がむしろ概して速めだっただろう。だからそれは、そういう表面的な目盛りの話ではなく、それに影響はするが、もっと深いところの、精神的なテンポのありようのことなのではないか。
 シューベルトはこのモデラートという指示を多用した作曲家だった。最後のピアノ・ソナタD960の第1楽章などに至っては、程度の高さを示すMolto(モルト)までついたMolto moderatoという指示さえある。「非常に中庸に」。甚だしさを斥けるモデラートを指定はするが、その中庸、程よさについては強く要求する。中庸さに程度というものが本当にあるのかどうかはわからないが、しかしシューベルトの音楽をさまざまに聴いていると、確かに彼の音楽のあの流れ方にこそ、モデラートという言葉はふさわしいように思える。その言葉が楽譜になくとも、彼の音楽に耳を傾けていると、リズムの持続や反復に支えられて、速くもなく遅くもなく、しかし確実に時が静かに流れてゆく感覚に、常に浸されている。
 名曲アルペッジョーネ・ソナタの第一楽章にも、アレグロ・モデラートの指示がある。ヴィオラのアントワン・タメスティとピアノのマルクス・ハドゥラによるこの曲の録音を聴いていて、作曲家がモデラートという言葉に託していたものが見えてくるように感じられた。

 ピアノソロで提示される主要主題は、冒頭のシンプルなカデンツが時間をゆったりとかけて始められる。ソナタの第一楽章の主要主題としてはあまりに歌謡的な、かなたにあるものを憧れるような悲しみを歌う旋律が、艶を抑えた素朴な音色で奏でられる。それに誘い出されるようにして、ヴィオラが同じテーマを歌い出す。決して表情を押し付けず、繊細なバランス感覚をもってフレーズを描くタメスティの音色は、一音のなかにも空気を、つまりは呼吸を感じさせる。和声の緊張や広がりが解決する直前のかすかなためらいが息をほのかに膨らませるように、この一節だけでも感情の微妙なゆらぎのすべてが呼吸として演奏に表現されていることがわかる。
 二人のアンサンブルは、その呼吸を──互いの出す音は言うまでもなく、それが出る前の息づかい、フレーズとフレーズのあいだ、和声の変わり目の息づかいをこそ聴き合う営みそのもののように感じられる。すると、他からの要請ではない自身の自然な呼吸でそれぞれが音楽を歌い継ぐことができ、またそれが合わさってひとつの歌となって聴く者に届けられる。そこに、速くもなく遅くもないモデラートの流れが生まれてくる。第二楽章のアダージョであれ、第三楽章のアレグレットであれ、基底に流れているものは呼吸を聴き合うことで生まれる親密なモデラートの時間である。主題がめぐり、またその主題自体が廻る動きをもった第三楽章のロンドでは、その律動のなかで旋律が繰り返されるたびに表情をかすかに変えるシューベルトらしい変化をていねいにすくい取る。ホ長調の第二エピソードのあと、イ短調に転じてピアノがふいにかなしみを歌い出し、ヴィオラが寂寥の雫が滴るようなピチカートで寄り添う箇所が、ほんの少しテンポを落として弾かれるのが沁みる。
 二人のアンサンブルを聴いていると、私たちが対話に求めているのは、ある意味、話の内実よりも呼吸が合うことなのかもしれないと思った。こちらがまだ相手の放った言葉の球をどう返そうか考えているのに次の球を投げられてしまったりすると、話は続けられてももう対話は成立しない。対話が成り立つためには、お互いに相手の呼吸を聴き合わなければならないのだ。
 作曲家がモデラートと書くときにはだから、演奏者それぞれにとって身体的にも精神的にももっとも自然な呼吸をもって演奏してほしいということを意味しているのかもしれない。演奏する者にとってもっとも心地よい呼吸で演奏されるとき、モデラートの流れは自ずと生まれる。そういう、弾き手に委ねられている部分の大きいテンポ感を、恐らくあらゆる作品の根底においていたところにシューベルトの大きさがあるが、息を吸う部分をことごとく省いた動画が氾濫し、前置きや一節と一節とのが無駄として切り捨てられる時代のなかで、モデラートの呼吸を失わずにいることの大切さを、シューベルトの音楽とこの演奏は教えてくれる。
 ここまでの内容を書こうと思い立った次の日、思いがけず体調を崩した。何か大仕事があったわけでも気の休まらない状況が続いていたわけでもなかったが、考えてみれば、頭のなかが常にこうした思考だけでなく、生活をめぐるさまざまに常に溢れかえり、体力的にも疲労が蓄積されていた。モデラートの呼吸を取り戻さなければならなかったのは、私自身だったようだ。





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