篠村友輝哉/YukiyaShinomura

ピアノ弾き、音楽評論、散文、音楽教育 / 桐朋学園大学卒業、同大学大学院修士課程修了 …

篠村友輝哉/YukiyaShinomura

ピアノ弾き、音楽評論、散文、音楽教育 / 桐朋学園大学卒業、同大学大学院修士課程修了 執筆のご依頼随時募集中。 https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/

マガジン

  • エッセイ・評論など

    音楽、その他の芸術や社会問題についての評論やエッセイなど。力を入れて書いたものから、気軽に一気に書いたものまで。とりとめのない雑感も。

  • 名盤への招待状

    ピアノ曲を中心に様々な名盤を取り上げ、その演奏から想いや思考を巡らせる評論的エッセイ。

  • 音楽人のことば

    対談企画「音楽人のことば」をまとめてあります。 最新回は、小林瑞季さんとの【「何を」と「いかに」のはざまで】。

  • 耳を澄ます言葉

    2021年下半期に東京国際芸術協会会報に連載していたエッセイ・評論「耳を澄ます言葉」

  • Tiaa Style

    東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」での連載からの6篇。

最近の記事

「為すすべのなさ」を抱えて──クリストファー・ノーラン『オッペンハイマー』

 先月末にようやく日本公開された、クリストファー・ノーランの新作映画『オッペンハイマー』を観て、しばらく茫然としていた。あまりの凄みに圧倒されて茫然としていながら、日常の音に劇中の音を想起するほど作品に頭が浸されてそれについて考えずにはいられず、しかしやはり思索はまとまらないという状態になってしまっていた。それでも考え続けているうちに、この茫然とするほかない感覚、言い換えれば「為すすべのなさ」のようなものこそが、そのままこの映画から私が受け取ったものだったのかもしれないと思い

    • 「こちら」と「あちら」の狭間から響く声──ジェシー・ノーマン、クルト・マズア指揮ゲヴァントハウス管弦楽団『R.シュトラウス:4つの最後の歌』【名盤への招待状】第14回

       気晴らしや耳のさみしさを埋めるためばかりではでなく、なにかもっと根源的な渇きを潤すためにも音楽を聴いているのだとしたら、その渇きとはつまり厭世観のことであると言っていい。音楽を痛切に求める心性の根本には、つねにこの世界にたいする嫌気や失望があるはずだろう。こうした暗く重たい想念からは、現実とはべつの時間の流れのなかに身を置くことでしか解放されない。  だから、ある意味、あらゆる音楽の背景にはそうした厭世的なものがあるとも言えるのだが、その現実からの超越願望こそが主題として痛

      • 鮮烈な感性が示す伝統の大きさ──エカテリーナ・デルジャヴィナ『J.S.バッハ:フランス組曲』【名盤への招待状】第13回

         芸術表現に触れるということは、他者の話に耳を傾けること──それも、実際の話し言葉では伝え得ない複雑にして痛切な話に耳を傾けることである。だから、話を聴いたあとでその内容や語り口にさまざまな感想を抱くことは自由だが、話を聴く前から話者に対して「自分はこういう話が聴きたい」と求めるのは、本来的に慎まなければならない態度である。  そのことを踏まえた上で、個々の内容というより芸術体験そのものに望まれることを述べるなら、それはその話を聴いたあと、自分のなかになにがしかの変化があるこ

        • モデラートの呼吸──アントワン・タメスティ&マルクス・ハドゥラ ほか『Schubert: Arpeggione & Lieder』【名盤への招待状】第12回

           楽譜の冒頭にModerato(モデラート)と記されているとき、演奏者はそれを、「中庸の速さで演奏するように」という指示として受け取る。あるいは、Allegro moderato(アレグロ・モデラート)などのように、それがほかの速度表記と併せて書かれている場合には、前に置かれた言葉の指示する速さの程度が控え目であることを意味していると捉える。  この文章に目を通してくださっている方々は音楽に詳しい人が多いだろうから、何を今さらと思われるかもしれない。しかしよく考えてみると、そ

        「為すすべのなさ」を抱えて──クリストファー・ノーラン『オッペンハイマー』

        • 「こちら」と「あちら」の狭間から響く声──ジェシー・ノーマン、クルト・マズア指揮ゲヴァントハウス管弦楽団『R.シュトラウス:4つの最後の歌』【名盤への招待状】第14回

        • 鮮烈な感性が示す伝統の大きさ──エカテリーナ・デルジャヴィナ『J.S.バッハ:フランス組曲』【名盤への招待状】第13回

        • モデラートの呼吸──アントワン・タメスティ&マルクス・ハドゥラ ほか『Schubert: Arpeggione & Lieder』【名盤への招待状】第12回

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          6本
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          6本
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          2本

        記事

          孤絶を抱えた再創造──イーヴォ・ポゴレリッチ『Chopin』【名盤への招待状】第11回

           暗く鋭い光を湛えた音が、こちらの呼吸からはもちろん、楽譜に記された拍節からさえも離れた時空間のなかに閃いて、そこに佇み、その音を閃かせているただ一人の彼に向けて歌っている。背景におぼろに響く左手の和音を伴って途切れ途切れに閃くその歌は、こちらに開かれていないだけではなく、こちらから安易に立ち入ったり、寄り添うことをも決して許さない、冷たい厳しさに耐えている。冴え冴えとしたその音は同時に柔らかさを持ち、瞬間ごとにさまざまな色を映し出す。共感しようとすれば拒まれるのだが、しかし

          孤絶を抱えた再創造──イーヴォ・ポゴレリッチ『Chopin』【名盤への招待状】第11回

          傷つきながら癒される

           十一歳のある夜の遅い時間、芸能人から一般人まで複数人の出演者たちが、なにかシリアスなテーマについてテレビで議論していた。子どものころ、早く寝なさいと言われた記憶はほとんどなく、就寝する時間が親と一緒だったので、それを見ていた母の横にいただけだったのだが、ある俳優が「セックスこそが愛の究極だ」と真顔で語っていたりする、今にして思えば、その年齢で見るような内容ではとてもなかった。  その番組のことを今でも思い返してしまうのは、ある出演者が口にしていた死生観に、当時の私が幼いなが

          傷つきながら癒される

          手に宿るもの

           数か月前のある日、私の出演する演奏会の案内を見たという知人から、「手がきれいだなと思っていたんですよ」と言われた。その人は、私がピアノ弾きだということを、その掲示を見るまで知らなかったのである。  こういった日常の何気ない場面から、はじめてかつての恋人の手を握ったときや、大学に憧れを抱いて見学に来た受験生と在校生として握手をしたときといった重要な場面まで、手やその感触をほめられるという経験は何度かあったが、そういうとき、私は自分という人間そのものが肯定されたかのような錯覚を

          これからの表現芸術のために、表現芸術のこれからのために──映画『TAR/ター』との対話

          「芸術家として優れている人ほど往々にして人間としては問題があることをするものだ」というような意見を、陰に陽に口にする人は、少なくない。かれらは、芸術家は社会規範からはみ出しているからこそ、常人にはできない発想や表現が可能なのだと言うのである。  私はこういった意見に、反対の立場を取り続けてきた。  確かに、私も含めて芸術にのめり込むような人間は、内面に、この世界への絶望と結び付いた、現実の倫理とは相容れない危険な衝動や願望を少なからず抱えているものだ。けれども、自分の抱えてい

          これからの表現芸術のために、表現芸術のこれからのために──映画『TAR/ター』との対話

          浸み透る歌声

           しばらくぶりに話した人に、元気ですか?と尋ねられて、答えるまでに少し間が空いてしまった。春前から不運や心理的に負担のかかるできごとが続いていたのに加えて、身体的にもやや疲労が溜まっており、思考や感情の方向も負のほうへ極度に傾きがちなこの頃であったから、「元気」と言ってよいものか、馬鹿正直な私はためらってしまったのである。間を空けてしまったらもうあとには引けない。元気と言いたいところなんですが、最近ちょっと疲れてます。たっぷり休息を取りたいですが、取り掛かっている仕事が一段落

          「信用できるから」

           年末や盆をのぞくほぼ毎週末にある仕事に電車で行く途中、高校時代に通学で乗り換えのために下車していた駅を通る。寝つきの良かった日でも必ず中途覚醒してしまう決して深いとは言えない睡眠と、始終何かものを考えてしまうこの脳のためか、電車に揺られているとすぐに眠気を催し、二駅目に着く頃にはもう浅く眠ってしまっていることも少なくない。けれど、停車する度に意識は戻ってくるので、比較的目が覚めているときなどは、その駅に停まると、車窓の向こうに見える乗り換えていた路線の車両を眺める。その少し

          「信用できるから」

          【「何を」と「いかに」のはざまで】小林瑞季×篠村友輝哉「音楽人のことば」第16回 後編

          (前編はこちら) ──「いかに」が大切、とはいえ…… 篠村 例えばある演奏について、徹底的に奏法とか身体の使い方、ピアノだったら鍵盤へのコンタクトやペダリングとか、そういうことの分析だけで演奏を記述するレビューや評論に僕はすごく違和感を覚えるんです。その演奏家の音楽の組み立て方とか、演奏において何を優先しているのかとかは、分析するしその必要性を感じるんですが、その演奏家の音や表現のよって来るところをすべて奏法の次元で解明しようとすることには、やっぱり強い違和感があります。

          【「何を」と「いかに」のはざまで】小林瑞季×篠村友輝哉「音楽人のことば」第16回 後編

          【「何を」と「いかに」のはざまで】小林瑞季×篠村友輝哉「音楽人のことば」第16回 前編

          ──「いかに」の重要性 篠村 「何を」と「いかに」について、僕自身は、大学の頃なんかは断然「何を」の方が大切だと考えていました。そこには、音楽大学という環境の、「どう弾くか」「どう楽譜を読むか」を訓練することにあまりに特化しているようなところに対する反発も含まれていたような気がしています。やっぱり、弾き方や読み方だけ知っていても、その先に描きたいものがなければ、それらは中身のない容器のようなものになってしまうからです。最近はその考えに変化が生じてきて、今では「いかに」の方も

          【「何を」と「いかに」のはざまで】小林瑞季×篠村友輝哉「音楽人のことば」第16回 前編

          慎み深くあるということ──ジャン=クロード・ペヌティエ 80歳アニヴァーサリーリサイタル

           二〇一四年から二〇一九年まで、毎年一度、幸運な年には二度、ピアニストのジャン=クロード・ペヌティエの生演奏を聴けたことは、私の生にとって、最も大きな救いのひとつだった。あの大きくはないが厚い手のひらのぬくもりに包まれたような音。圧倒的な内省が音楽に与える、実際の静寂以上の静寂。孤独への深い理解に比例した、何者をも問い詰めない大きな優しさ。演目や会場などによって、受ける感銘の深さや種類に差はあれど、それは毎回例外なく、生それ自体への感謝という、素朴でしかし日常で実感するのが困

          慎み深くあるということ──ジャン=クロード・ペヌティエ 80歳アニヴァーサリーリサイタル

          語り続ける姿──アレクセイ・リュビモフ ピアノリサイタル

           指定された座席に着いてプログラムを読んでいると、今日のピアニスト、アレクセイ・リュビモフがまだ会場に到着していないとのアナウンスが流れた。何かの事情で来日が遅れ、空港から直接会場に向かっており、二〇分押しの予定で、到着次第すぐに始めるという(四月十一日、五反田文化センター音楽ホール)。  中止にはならないということにまず安心したが、飛行機を降りてそのまま会場に直行して、休息の時間もリハーサルもなく、緊張感のなか二時間の演奏をするというのは過酷なことだ。演奏家の立場としては、

          語り続ける姿──アレクセイ・リュビモフ ピアノリサイタル

          谺する聖愚者の予言──マリウシュ・トレリンスキ演出、大野和士指揮によるムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》

           ひっそりとした闇に包まれた舞台に、各辺を光らせた立方体が並んでいる。上手側に置かれたその内側が照らし出されると、痩せ細った、身体に障碍を抱えている若者が、斜め上を見て椅子に座っている。その表情が背後のスクリーンに大きく映し出され、それが荒涼とした大地のような映像とクロスフェードするとともに、個人的な感情ではなく、もっと根源的な、この世界を生きる人間が抱えている宿命的な哀しみのようなものを湛えた嬰ハ短調の旋律が、ファゴットの音色で聞こえてくる。  昨年(二〇二二年)の十一月に

          谺する聖愚者の予言──マリウシュ・トレリンスキ演出、大野和士指揮によるムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》

          影の残像──アレクセイ・リュビモフ『ショパン:バラード集 他』【名盤への招待状】第10回

          「悪友」と呼んでいる友人──かれは「俺は『悪友』じゃなくて『聖人』だよ」と笑っていたが──に、もうしばらく会えていない。最後に会ったのは、2020年の1月、新宿のファミレスで食事をしたときだった。かれが留学するというので、しばらく会えなくなるからと、学生時代にいつもつるんでいたもう一人の友人と、会っておこうということだった。 「悪友」などと呼ぶほどの間柄の人と会ったときの常かもしれないが、何を話したのかはあまり覚えていない。たぶん、いつものように好きな演奏家を称え合い、逆に、

          影の残像──アレクセイ・リュビモフ『ショパン:バラード集 他』【名盤への招待状】第10回