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語り続ける姿──アレクセイ・リュビモフ ピアノリサイタル

 指定された座席に着いてプログラムを読んでいると、今日のピアニスト、アレクセイ・リュビモフがまだ会場に到着していないとのアナウンスが流れた。何かの事情で来日が遅れ、空港から直接会場に向かっており、二〇分押しの予定で、到着次第すぐに始めるという(四月十一日、五反田文化センター音楽ホール)。
 中止にはならないということにまず安心したが、飛行機を降りてそのまま会場に直行して、休息の時間もリハーサルもなく、緊張感のなか二時間の演奏をするというのは過酷なことだ。演奏家の立場としては、二〇分の遅刻で済むなら当然の判断だったのかもしれないが(ミケランジェリやツィメルマンのような人は違うかもしれない)、かれの七十八という年齢を考えても、聴き手としてはやはりその決断に頭が下がる。
 矍鑠かくしゃくとした姿で舞台に登場──到着したリュビモフは、椅子に座ってしばし呼吸を整えると、すでに空間に存在していた音楽をすくい取るかのように、シルヴェストロフの四つの小品作品二を静かに弾き始めた。鍵盤の芯を捉える力みのない円熟したタッチから生み出される透りのよい音は、色彩感覚に富み、音楽に沿って濃淡、遠近の境を自在に行き来する。絶妙なペダリングによってそれらが響きのなかで融け合うと、時空の広がりが変容する。音楽が、いまここではなく、記憶のかなたから聞こえてくるように感じられる。
 その感覚は、前半の最後に置かれた同じシルヴェストロフの《使者‐1996》に、より強く抱いた。ピアノの屋根を完全に閉じて演奏されることで、響きに蓋がされる。霞の向こうから美しい記憶の断片たちがゆっくりと現れては消えてゆくような音楽。リュビモフ本人も語っているように、いま、ウクライナの作曲家であるシルヴェストロフを取り上げることには、現実的な意図も多分にあっただろうが、確かに、その過去を今に呼び寄せるような音楽は、現在行われているさまざまな破壊にたいする、静かだが最大の抵抗と言えるだろう。
 リュビモフの演奏は、音楽の流動性というものを強く感じさせるが、シルヴェストロフの二曲に挟まれた、音楽自体がはるかに動的なモーツァルトのソナタ第十五(十八)番K.五三三(K.四九四)ヘ長調では、必然的にそれが際立つ。冒頭から主題の性格や非和声音を強調し、アグレッシヴとも言える姿勢で音楽が突き進んでゆく。ポリフォニーやモチーフが克明に浮かび上がり、音楽上で起こるさまざまに鋭敏に感応するが、そのすべてが積み上げられるのではなく、硬軟自在の独自の鋭利さをもった音と、自在でめくるめくようなテンポ感で怒涛のように駆け巡ってゆく。それは情感というよりもある幻想の創出であり、モーツァルトの音楽のデモーニッシュな面がそこに映し出されている。
 しかし、その即興性に富んだ溢れ来る表現を、雄弁と感じるか饒舌と感じるかは、紙一重ではないだろうか。正直なことを言えば、このモーツァルトに関しては私自身は後者で、その気迫と深い様式理解、そして音自体の魅力が生む説得力には圧倒されつつも、もう少しゆっくりと景色を眺めたいような思いを拭いきれなかったのだが、この、何か無数の言葉を聴いているような感覚は、後半においても感じられたものだった。その雄弁はしかし、表現のひとつひとつに思想や概念をぬり込めるアファナシエフのような演奏とは異なり、あくまでも想念の上澄みや影を流動性をもって紡ぎ、ある幻影を聴き手に喚起させるものだ。
 ブラームスの六つの小品作品一一八では、濃密さは音色によって体現され、スタイルもロマン的だが、機敏で痩身、ピアニスティックであり、それが、ブラームスの分厚い響きのなかに隠されたいくつもの言葉を浮かび上がらせる。リュビモフの手にかかると、さらにそれが忍び来る影のような様相を帯び、モーツァルトではややくどく感じられたモチーフの強調なども、幻想のなかの囁きのように感じられる。第一曲「間奏曲」のオクターヴの旋律は、透き徹った、しかし陰影を伴った音で奏でられるが、そのあいだを駆け抜けるアルペジオは、毎回どこかに消えてゆくように弾かれる。第三曲「バラード」の内声のスタッカートが、力強さのなかで微かな躊躇いのように弾かれたのも印象深い。第四曲「間奏曲」のソプラノとテノールのカノンもたんに浮かび上がるのではなく、仄暗い光が交互に明滅するようなイメージを掻き立てる。最後の第六曲「間奏曲」では、その影が減七の禍々しい響きのうごめきによって漆黒となって広がり、その空間のあちこちでテーマが呼応し合う。終結部分でそれが激しく刻み付けられ、深淵から響いてくる変ホ短調のアルペジオに収斂する。
 第二曲「間奏曲」、第五曲「ロマンス」も、この作品の演奏としては、温度感として熱やあたたかみがあるというわけではないが、激しい表情に満ちたものだった。実は後半の演奏は、この日の過酷なスケジュールの影響が表れてしまっていた場面があったことは否めないものだったのだが、それでも、続いた三つの間奏曲作品一一七においても、リュビモフの演奏には、諦念とは凡そかけ離れた、何ごとかを語り続け、訴えかけるようなエネルギーが充溢していた。
 それは、一度は引退を表明していながらふたたび舞台に戻り、モスクワの演奏会でシルヴェストロフを取り上げたために警察に踏み込まれても演奏を続け、来日が遅れても演奏会を敢行するかれの現実の姿と、重なり合うものだろう。かれには、まだ言いたいことがあまりにも多くあるのだ。それは、人を表現へと向かわせる、根源的な衝動そのものだろう。何かを語り続けるかれの姿に接して、いま社会に蔓延している、優しさとしての諦念ではない「どうせ変わらない」というシニカルな諦念に、私自身も抵抗し続けていかなければとの思いを新たにした。
 最後に置かれたのはショパンの《舟歌》。最初に奏でられるバスの嬰ハと続く上三声が、これ以上はないようなバランスで響き、そこから、各声部の放つ光彩が重なり合って降り注いでくる。ゴンドラのリズムに乗ってその光彩と陰影が繊細に交替しながら、痛みさえも格調高く歌うショパンの遺した最も美しい軌跡のひとつを、リュビモフの「声」が、今に描き出してゆく。

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