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連載小説「クラリセージの調べ」4-9

 陽射しは優しいが、風は容赦なく吹きつけてくる。花粉が大量に飛散しているのは明らかで、マスクを外した花粉症の人は再びマスク生活に戻るに違いない。残っている桜も散ってしまうと思うと物悲しさが募る。

 瑠璃子とすずくんと、ファミリーレストランに隣接するドラッグストアの駐車場で落ち合うことになっていた。十五分前にも関わらず、瑠璃子のライトブルーのワゴンは既に着いていた。

 私が白い軽自動車を隣につけると、瑠璃子が険しい顔で飛び出してくる。
「裕美の車らしいのがあそこに止まってる!」

「え、どれ?」
 前回が空振りに終わったので、今日もそうだろうと緩やかに構えていた心臓が跳ね上がる。

「あそこにピンクメタリックのが見えるでしょ? スズキのラバン。あの色は少ないから、多分彼女の」 

「かわいい車……」
 動揺を隠そうとたいして意味のない言葉が口をつく。これから起こりうることを想像するとにわかに心拍が上がり、逃げ出したい衝動に駆られる。

「すーちゃん、結翔の車があるかわかる?」

「反対側は見えないから見てくる」

 大量に放出されているアドレナリンのせいか、頭がしゃきりとする。指先からつま先まで勢いよく血が巡り、全身が熱を帯びていく。裕美の車だというラバンの中を覗きたい衝動に抗い、駐車場を一巡する。

 見慣れた白いアウトランダーがないことに安堵して戻ると、瑠璃子が助手席のドアを開けて乗れと促す。フロントガラスのワイパーに、どこかから飛んできた桜の花びらが挟まっている。

「すずからLINE。15分くらいで行けるから、私たちは店に入らずに車内で待機してろって。まず、すずが入って近くに席を取って、LINEで合図したら私たちが入れと言ってる。私たちが暴走すると思ってるのかね」

「私たちは顔を知られてるから、すずくんの言う通りにしよう」

 風に乱された髪を直しながらも、いつ夫の車が入ってくるかとファミレスの駐車場から目が離せない。土曜の昼時だが、長居する客が多いのか、車の入れ替わりは思ったよりせわしくない。店内が騒がしい時間帯なので、修羅場になったとしても、それほど周囲の注意を引かないだろう。

 瑠璃子は、葉瑠ちゃんのお迎えのことで母親とLINEを交わしている。葉瑠ちゃんと仲直りできたのか聞いてみたいが、会話に気を取られて夫の車を見逃したくない。

 どうか現れないでほしいと切望する一方で、来るなら来いと、諦念なのか肝が据わったのか判別しがたい思いも湧いてくる。夫が現れるか否かで、これからの日々が、がらりと変わってしまうことを思うと、緊張で身体が強張っていく。不穏な気持ちに連動するように風の唸りが強まる。

「あ……」

「どした? 来た?」

「あの白いアウトランダー……」
 車から下り、キーを向けてオートロックする長身で筋肉質の男性は間違いなく夫だ。現れるなと強く願った。だが、今朝送り出した空色のカーディガンとベージュのチノパン姿の男が店のドアを開けるのを目の当たりにすれば、現実を受け入れざるをえない。経済的に自立する覚悟を決めたことも手伝い、ここまできたら何があっても受け止めようと覚悟を固める。

「すずにLINE入れるね……」
 瑠璃子が憐憫とかすかな高揚感の浮かぶ目で私をちらりと見てから、LINEを打ち始める。

 5分も経たないうちに駐車場に滑り込んできたハイエースから、スーツ姿のすずくんが颯爽と出てくる。細身の紺スーツに身を包んだ彼は、いつも以上の存在感がある。

 彼は腰をかがめ、瑠璃子が開けた窓から私たちを覗き込む。
「二人に送ってもらった写真で、結翔さんと裕美さんの顔を頭に叩きこんだ。俺が入って、できるだけ彼らの様子が観察できる位置に席を取る。できたら、確認のために写真を撮って送る。だから、LINEで合図するまで、絶対にここから動くなよ」

 彼が去り際に助手席の私に向けた眼差しに、任せろと言わんばかりの力強さと誠実さを感じ、どん底にあった気持ちを引き上げられる。そのことで、私はまだ彼に憧れに似た気持ちを抱いていることに気付く。

 すずくんの細い背中を見送った後、私と瑠璃子は内容の薄い会話を二言三言交わした。そのうち、どちらからともなく、スマホをいじりはじめる。

 しばらくして、私と瑠璃子のスマホからLINEの着信音が同時に鳴り、思わず目を合わせた。結翔と裕美らしき二人がいるテーブルとパーテーションを挟んで背中合わせの席を取ったというメッセージに、追加で二人の写真が送られてくる。

「これ、間違いなく裕美と結翔だね……。結翔、少しふっくらした」
 瑠璃子がスマホに目を落としたまま、感情の起伏を排した声で言う。

 私は小さく頷き、裕美の横顔を拡大する。剛毛多毛に見える黒髪のボブヘアで、日焼けした健康的な肌の裕美は、夫に弾けるような笑みを向けている。夫も見たことがないほど開放的に笑っているように見える。気分が悪くなり、駐車場を行く人に視線を移すが、心が千々に乱れているせいか焦点を結ばない。

 瑠璃子がこの二人で間違いないと返信すると、入ってきてOKとLINEが入る。瑠璃子と強い視線を交わし、店に入っていくと、中央あたりの席ですずくんが小さく手をあげる。

 私と瑠璃子は顔を伏せ、夫と背中合わせの席にさっと滑り込む。向かい合わせに座わるすずくんに促され、タッチパネルを操作して、ドリンクバーを2つオーダーする。

 すずくんが声を落として告げる。
「高感度の小型ICレコーダーで会話を録音した。出ていくなら、いつでも大丈夫」

「さすが、すず。引き延ばしても仕方ないから行こう」

 瑠璃子が私の腕をがっしりと掴み、決意を促すように頷く。私は答えの代わりに、足裏に力を込めて立ち上がる。

 テーブルの前に立った瑠璃子は、口調は友好的でも、笑っていない目で問いかける。
「裕美、結翔、久しぶりだね。何してるの?」

「瑠璃子……」
 裕美が凍りついた眼差しで瑠璃子を見上げる。

「初めまして、市川澪です。結翔くん、今日はALTの先生と一緒だと言ってたよね?」
 夫は動揺を覆い隠すかのように表情を殺している。

 瑠璃子が私を援護するように口調を鋭くする。
「結翔と裕美がここで会ってるって話を聞いたから、まさかと思って確かめにきたら……。二人とも、別の人と結婚しているのに、会うのはおかしいんじゃない?」

「申し訳ない。俺が不妊治療のことで、経験者の彼女に相談にのってもらっていた。澪にどんな言葉を掛けて支えるべきか、わからなかったんだ。あくまでも澪の、俺達夫婦のためだ」

「それなら、元カノに聞かなくても、ネットで調べるとか、クリニックのカウンセリングで相談するとか、他の方法がいくらでもあるでしょう!」

 瑠璃子の激昂した声に、周囲が何事かと振り向く。嫌だなと思ったとき、その場を収めるように、すずくんが凛とした声で割って入る。

「突然失礼します。二人の友人の鈴木と申します。皆さん、冷静に話しましょう。岩崎もすーちゃんも、こちらに座らせてもらって」

 裕美の隣に瑠璃子、対岸の結翔くんの隣に私が座り、すずくんは私の隣に腰を下ろす。居心地の悪い配置に、名状しがたい気まずさが流れる。

「大変失礼ですが、先ほどの結翔さんと裕美さんの会話を録音させていただきました。私は医者ですが、不妊治療の相談には聞こえませんでした」

 すずくんがレコーダーを再生する。周囲の話し声や食器の音が邪魔をするが、二人の会話はしっかりと聞きとれる。

―裕美の貸してくれた『最愛』見終わったよ。

―ようやく? 遅いよ。で、どうだった? 梨央りお社長を守る加瀬弁護士、結翔みたいでしょう? 外見もちょっと似てる。

―ああ。二人の絆は十五年だけど、俺達はそれ以上だな。中学で知り合ってから、もう二十年以上。いつも支え合ってきて、家族同然だ。

―結翔と中学で出会ってから、高校卒業するまで六年。親友として、困ったときはいつも助けてくれた。高校卒業と同時に付き合い初めて十年。離れていたときも、何かあったら夜中でも駆けつけてくれた。私を助けるために、腕を折ったこともあったね。

 あのとき別れてからも……。私が幸せかどうか、ずっと気にかけてくれて、そうでないときは助けてくれたよね。『最愛』見たとき、結翔は加瀬さんみたいだと思ったよ。

―家族を亡くした加瀬は、勤務先の梓社長つまり梨央の母親に、真田家の家族だと言われた。だから加瀬は、会社と真田家を家族と思ってきた。父親を亡くした梨央が真田家に迎えられたときから、梨央を家族として愛し、守ってきた。梨央は、自分のせいで怪我をして記憶障害を持つ弟の優を治す薬を作るために突き進んでいる。加瀬は梨央の夢を実現させるために、彼女の前に立ちはだかる障害を全力で潰し、彼女を助ける。梨央と優の幸せを守るためなら、法を犯すことも辞さない。それが加瀬の「最愛」。彼は男の俺でも惚れるくらい格好いい。

―うん。私も、結翔の幸せのためなら、できることは何でもしたい。それが、私の「最愛」だから。さすがに、加瀬さんみたいにはいかないけど。

―ははは。俺は十分助けられてるよ。

―私もだよ。

─俺たち、昔よりもかけがえのない絆で結ばれてるかもしれないな。

―そうだね。

 夫は怒りと屈辱を押し込めた低い声ですずくんに問いかける。
「他人の会話を無断で録音して失礼だと思わないんですか?」
 痙攣する唇が、抑えた感情の激しさを物語っている。

「失礼は重々承知しています。ですが、元婚約者と密会するのは、澪さんにも裕美さんのご主人にも失礼ではありませんか?」

「彼女は、いまは親友です。異性の友人に会うことが問題なら、澪とあなたが会っていることも問題ではないですか?」

「すーちゃんとすずはただの友達。会うときはいつも私と三人。元婚約者と二人で会ってる結翔とは違うの! そんなこともわからないの?」

 ヒートアップしていく会話の流れを見かねたのか、裕美が口を挟む。
「すみません。何か誤解しているようなので……。まあ、この状況では誤解されて当然ですが。少し説明させていただけませんか?」
 ハスキーで通りのよい彼女の声は、沸騰した空気をクールダウンする効果があった。

「結翔と私は、恋人としては五年前に終わっています。結翔が私よりも、市川家を守ることを選んだ時点で、私は彼に見切りをつけました。その時、彼に対する恋人としての愛情はなくなりました。今では私を一番に考えてくれる別の人と家庭を築いています。

 先程の会話でもわかるように、いま私と結翔の間にあるのは家族のような友情です。中学からずっと助け合ってきたので、互いのことを誰よりも知っています。家族同様に大切に思っています。だから、私は彼が幸せかどうかが気にかかり、そうでないときは全力で助けたいと思っています。今日も、彼の幸せを支えたくて、相談に乗っていました。結翔も私と同じだと思います。

 このたびは、奥様に不快な思いをさせてしまい、本当に申し訳ございませんでした。理解していただければ、誤解は解けると思います」

「わかっただろう、澪。彼女に相談したのは、俺達の幸せを守りたいからだ」

「わかりました。もう結構です。すずくん、瑠璃子、今日は忙しいのにありがとう。帰ろう」

「え、ちょっと、すーちゃん?」

「因果応報だよ……」

 二人を促し、五人分の会計を済ませて外に出ると、春風がなぐるように吹き付けてくる。