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連載小説「クラリセージの調べ」4-8

 料亭での食事会から、夫への気持ちは振り子のように揺れ動いている。

  結婚以来、夫への信頼は増していた。
 私が嫌味を浴びせてくる義母と義姉に悩まされているとき、夫は私の側に立ち、盾になってくれた。辛い不妊治療も、夫が私を思いやってくれるからこそ続けられている。

 瑠璃子から、元婚約者の裕美ゆみとの経緯を聞いたときも、夫への信頼が崩れ去ることはなかった。私も彼と同様、自分の意志ではどうにもならない理由で、最愛の人と人生を共にできなかった。そんな恋を失くしたら、一生独身を貫く生き方もある。だが、私も彼も、新しい相手と家庭を築く道を選んだ。相手の中に同じ要素を見いだしたことが、互いを人生のパートナーに選んだ大きな理由だったかもしれない。

 新たなパートナーと歩み始めた以上、元恋人と連絡を取り合うのはルール違反ではないだろうか。私はそう考えるので、元恋人に一度も会っていないし、連絡もとっていない。不意に、高波のように湧き上がってくる思いも封じ込め、夫に気持ちを傾けてきた。それが、夫に対する礼儀だと思った。

 だからこそ、夫がそのルールを破っているかもしれないことに不安と悲しみ、憤りが湧いた。そして、そうした感情が湧くほど、夫を愛していると気付いた。そのことは、再び男性を愛せた安堵とともに、不安と不信感を植え付けた。

 夫に同じルールを求めるのは間違っているだろうか。それは傲慢だろうか。自問を続けても、世間一般の常識に照らしても、正解は見つからない。

 割り切れない感情を抱えながらも日常は続いていく。夫と同じベッドで眠り、先に目覚めて朝食を作り、仕事に行く車を見送る。夕食と風呂を準備して夫を迎え、食卓を囲んで今日あったことを話し、共に眠りにつく。
 
 そんな日々のなかで、夫を問い詰めたい衝動に駆られたことは一度や二度ではない。 

 私はそのたびに思い留まった。

 実の両親や祖父母のためにも、この結婚を維持したい。彼と別れてしまったら、年齢的にもう子供を授かれないかもしれない恐怖もある。
 
 だが、私はそれ以上に、夫との他愛無い日々に愛着を感じている。もしかしたら、愛情だと思っている感情は、愛着と呼ぶのが正しいのかもしれない。どちらにせよ、さざ波のような幸せを感じる日々を失うことを想像すると、津波に飲まれるような恐怖に襲われる。

 一週間後の土曜日に、瑠璃子とすずくんとファミレスに張り込んだが、夫も裕美も現れなかった。そのことは思った以上の安堵をもたらした。翌週も、その次の土曜日も、夫は午前中の部活を終えると真直ぐ帰ってきた。そうして時間を重ねるうちに、話を聞いた時の衝撃は薄れていく。だが、植え付けられた不信感が消え去ることはない。 


                ★
「失礼します。いらっしゃいませ」
 私は作り笑顔を張り付け、義母が招いた町内会のメンバーに煎茶と手作りの酒饅頭を出す。ソファに陣取る年齢層の高い男女から、値踏みするような視線が飛んでくる。

「お嫁さん?」
 ラメ入りのカーディガンを羽織った中年の婦人が、金縁眼鏡の奥から鋭い視線を向ける。

 私が口を開くよりも先に、義母の糸子さんがすかさず答える。
「結翔のお嫁さんの澪さん。去年、高村さんのとこにも挨拶に行ったの覚えてる?」

「あら、そうだった?」

「そうよ。去年の春、結婚式の日に、結翔と澪さんとあたしで、お赤飯持っていったじゃない」

「ああ、そう言えばそうだったわね。嫌ねぇ、年だから、すぐ忘れちゃうのよ」

「嫌ねは、こっちの台詞よ。高村さんが年だったら、私なんてどうなるの。あなたより二歳も上なんだから」

「糸さんは先生してたし、運動もしてるから、いつまで経っても若々しいわね。人生100年時代って言われてるから、私も足腰鍛えないとね」
 
 皆がお義母さんを持ち上げるように、本当にそうだと頷きあう。

「糸さん、この酒まん、うめーな。昔は、盆や葬式にお袋と女房がこういうの作ってたな」
 頭頂部まで日焼けした精悍な顔つきの老人が声を上げる。

「あら、敏正としまささんのお口に合って良かったぁ。澪さんの手作りなの。田舎料理は上手なのよ」

「田舎料理で悪うございました」と胸の中で毒づきながら、茶菓子を並べる。

「糸さん、お嫁さんが同居してくれるのはありがたいことよ。うちの長男の嫁なんか、同居が条件なら結婚しませんと初っ端から宣言したんだから」

「最近はそういうお嫁さん多いわよね。私たちの時代、この辺りでは、長男は義両親と同居したけどねえ」

「うちは敷地内同居だけどね」

「うちもさ、農家だから庭だけは広いでしょう。だから、糸さんところみたいに、息子夫婦のために家を建ててやると持ち掛けたの。それなのに、自分たちはマンションを買うからいいって、けんもほろろよ。大学まで出してやったのに恩知らずよ」

「まあ、お気の毒。うちの澪さんは一言も文句を言わなかったわよ」

「選択肢なんかなかったじゃない」と心のなかで悪態をつき、台所に下がる。お茶くらい自分で出せばいいのに、嫁と円満アピールのために引っ張り出されるのは迷惑だ。

 腹に収まらないものを抱えたまま、おじいちゃんの様子を見るために奥の部屋に向かう。来客中に徘徊しないように薬を飲まされたらしく、口を開けて穏やかな寝息を立てている。脇のテーブルには、『尋常小学唱歌』と表紙に書かれた本が無造作に置いてある。亡くなった曾祖母が、ボケてからも歌の歌詞は正確に記憶していたことを思い出す。

 隣室で静かにしているよう申し渡された皇太郎くんは、畳に腹ばいになり、時折足をばたつかせながら絵本を広げている。周囲には、何冊か絵本が散らばっている。手に取って開いてみると、お母さんが妊娠して、一人っ子だった子に弟や妹ができる話だ。絹さんが、もうすぐお兄さんになる皇太郎くんに、そのことを認識させようと選んだのだろう。

 絹さんの膨らんでいくお腹を観察しながら、皇太郎くんはお兄さんになる心の準備をする。弟か妹が来れば、彼は独り占めしていた両親の愛情をその子と分け合うことを余儀なくされる。一人っ子の私は、その過程を経験していないが、皇太郎くんがどんなお兄さんになるのか見守っていきたい。私の焼いたあんぱんを頬張る彼を横目に、親に甘えたい欲求をコントロールしなければならない淋しさを少しでも埋めてあげられるだろうかと自問する。

 襖一枚隔てただけなので、リビングの会話は筒抜けだ。耳が遠いせいか、遠慮がなくなったせいか、ボリュームが上がっていく声は否応なしに耳に入る。話題は、新しく越してきた隣人の悪口から、コロナを理由に帰省しない娘夫婦への不満、孫の名前がキラキラネームで恥ずかしいことまで広がっていく。聞きなれた義母の声は、とりわけよく響く。自分が話題の中心でいないと気が済まないのか、他人の発言に割り込んでも滔々とうとうと自説を披露するのが見苦しい。私の母が近所付き合いを最小限にし、こうした陰口に加わらなかったことが好ましく思えてくる。

「そういえば、糸さん。お嫁さん、花房クリニックにかかってる?」
 ラメのカーディガンの女性らしき声に、びくりと心臓が跳ね上がる。

「さあ、よく知らないけど」

「さっき、あのお嫁さんを見て思い出したの。あたし、花房さんに漢方薬もらいにいってるんだけど、何度かあの子を見たわ。どっか、悪いの?」

「さあ、そういうことは聞いてないけど」
 義母が明らかに歯切れ悪そうに答える。

「もしかして、不妊かい? 花房さんは、不妊を診るって評判だろ」
 饅頭の老人が、声を落として尋ねる。

「やあね。ピルか何かじゃない」
 義母の力がこもらない声に、胃がきゅっと縮む。

「ねえ、糸さん。結翔くんのところ、そろそろ結婚して一年経つでしょう? まだできないの?」
 一番若そうな声の女性が興味津々に尋ねる。

「さあ、そのうちできるんじゃない。宇都宮にいる紬も結構かかったけど、無事に男の子できたし。そういうことは、結翔たちに任せてるから」

「でも、糸さん。もし、いつまでもできなかったら、どうするの……?」
 若そうな女性は、勢いを失った義母をさらに問い詰める。

「昔は、子供ができないと離縁された嫁もいたな。そういえば、区長の小倉さんのところ、長男の嫁さんがいつまで経っても妊娠しないから、離婚させて、若い嫁さんをもらったって噂になったな。まあ、もともと夫婦仲が良くなかったから、それだけが理由じゃないかもしれないが。それでさ、その離婚した嫁さん、別の人と結婚したら、すぐにできたそうだ。山口さんの息子が不妊なんじゃないかと、ひそひそ言われてたな」

 手を叩いて笑う甲高い声が響いたのも束の間で、先ほどの女性は義母への追及を止めない。

「糸さんところのお嫁さん、ちゃんと不妊治療してるの? 糸さんには、うちの次男の嫁ができないときに花房の若先生を紹介してもらったり、葉酸のサプリメントをもらったり、お世話になったからさ、心配になっちゃうのよ。うちと違って、何代も教師が続く由緒ある家だから、男子ができないと大問題なんでしょう?」

 女の口調には明らかに悪意がにじみ、以前お義母さんに干渉されたことへの復讐に聞こえる。

 義母は私を意識して声を落とす。
「今では流石に、子供ができないから離縁とはいかないでしょう。向こうもそれなりの家だから厄介なことになりそうだし。だから、旦那と相談して、最悪の場合、紬か絹の子を結翔の養子にもらうことを考えてるの。幸い、どちらも男の子ができたし。そうすれば、市川の血が入るでしょう。昔は養子なんて普通だったじゃない。今だって、祖父母の遺産を相続させるために、孫と養子縁組する話を聞くでしょう」

「え、それ、みんな納得してるの? 特に、お嫁さん……」

「やあねえ、もしもの話よ、もしもの。まあ、澪さんは、甥っ子の世話をして、絹が仕事と子育てを両立するのを支えてくれてるから、そうなったとしても、それほど嫌がるとは思わないけどね。何の資格も持ってないんだから、教師として働いている絹や紬のサポート要員になってもらうわよ」

           
                 ★
 憤懣ふんまんやるかたない口調で、お義母さんの発言を報告する私に、結翔くんは小さく溜息をつく。

「本気にすることない。おふくろは負けん気が強いから、不利になると虚勢を張って適当なことを言うんだ。そういうのは幾度も聞いてきた。姉ちゃんたちには、おふくろがそんなことを言ったなんて絶対言うなよ」

 いつも親身になってくれる彼に、軽くあしらわれたことが激しく神経を刺激する。それを皮切りに、あの食事会以来、腹の中で茫漠としていた願望がくっきりと立ち上がる。

 私は持っていた茶碗と箸を音を立てて置く。
「結翔くん、私、看護師資格を取る。来春の入試に向けて勉強する」
 瑠璃子の赤らんだ瞳、義母の悪意を浮かべた眼差し、絹さんの細い目に張り付いたにやにや笑い、義父の粘り気のある視線が脳裡を横切る。私は市川家の都合のいい道具ではない。

 彼の眉がぴくりと上がり、釈然としないと言いたげな眼差しを向ける。
「子供ができたらどうするんだ……」

「そのときは休学するけど、復学して必ず資格を取る。学費は貯金から出すから結翔くんには迷惑かけない」

「澪がそうしたいなら反対はしないけど。急に何を言い出すんだ」

「前から考えていたことだけど、今日のことではっきりしたの。私は、市川家のために都合よく使われる嫁で終わりたくない。資格を取って、経済的に自分の脚で立って、人生を充実させたい」

 彼は面倒くさそうに眉間にしわを寄せる。
「おふくろの戯言たわごとを本気にするなよ」

「は? 私がどれほど屈辱だったかわからないの? 虚勢だったとしても、今日の発言でお義母さんが何を考えているかわかった。私は市川家の家政婦ではありません。自分の人生は自分で設計します。以上」

「何でそういうふうに、話が広がっていくかな。俺は三年の担任になって、振り回されて疲れてるんだ。野球部の春の大会で勝たなくてはならないプレッシャーもあるし、余裕がないんだ。今日のところは勘弁してくれよ」

「疲れているときに、面倒な話をしてごめんなさい。私の話はそれだけ」

「わかった。今日は疲れてるから、風呂入ってすぐ寝かせてもらう。土曜の午後は新しく来たALTのイギリス人にいろいろ案内するから休めないんだ。休めるときに休むよ」

 食べ終えた八宝菜の皿をシンクに運ぶ夫を視線の端で捉え、瑠璃子とすずくんとのグループラインにメッセージを送信する。