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連載小説「クラリセージの調べ」5-7

 残暑が落ちつき、風が爽やかになると、私は年末に迫る看護学校の入試への焦りから、母屋の手伝いと距離を置いた。9月に皇太郎くんの幼稚園が始まり、絹さんと義父母が赤ちゃんを中心に回る生活リズムに慣れ始めたことがそれを可能にした。

 夫を父親にしてあげたい思いはあり、移植に踏み切るべきだとわかっている。だが、夫と裕美の密会現場、市川家への複雑な感情と瑠璃子の警告が幾重にも絡み合い、逡巡を続けている。治療に気持ちを向けようとしても、何年も授かれず精魂尽きたとき、自分に何が残るかと想像すると背筋が冷えていく。
 看護学校の過去問題で高得点が取れるようになってからは、資格を取得して経済的に自立することへの気持ちが高まっていく。瑠璃子とすずくんが、抱えていたものを乗り越え、確実に前進していることも焦燥を強める。

 義父母と絹さんは、子供たちとおじいちゃんのケアに手一杯で、私が治療を再開しないことに何か言ってくることはない。夫は私を刺激することを恐れるかのように、その話題を避けている。私は、それを口実に、卑怯と知りつつも大学病院の予約を先延ばしにいている。


 いつものように、夫の仕事の話を聞きながら夕食を済ませ、私は皿洗いと朝食の仕込み、風呂上がりの夫はスウェット姿で授業準備をしているときだった。

 せわしなくチャイムが鳴らされ、絹さんの声が飛び込んでくる。
「結翔、澪さん、おじいちゃんの具合が悪いの!」

 慌ててマスクを付け、二人で母屋に向かうと、おじいちゃんは苦しそうな息をしていて顔色も悪い。

「じいちゃん、わかるか? 結翔だよ!」
 ベッドサイドに駆け寄って手を握った夫は、取り乱して呼びかける。おじいちゃんは渾身の力で目を開くが、その視線は虚ろだ。

 パジャマ姿で髪を巻きネットを被ったお義母さんが電子体温計を見せる。
「熱が38.5度もあるのよ」
 
 夫が険しい顔で尋ねる。
「クリニックに電話した?」

 パジャマ姿の義父が腕組みをして答える。
「今さっき、掛けてみたけど、診療時間外で留守電。3日前に往診があって、そのときは何ともなかったんだが……」

「次の往診はっ?」

「来週」

 夫は眉間に指をあて、ぎゅっと目を閉じる。
「年齢が年齢だし、何かあったら一生後悔する。救急車呼ぶか、病院に連れていこう」
 
「あたし、もうお風呂入っちゃって、この格好よ」

 ジャージ姿の絹さんが不安そうに口を挟む。
「熱が高いだけで救急車呼んで大丈夫? コロナがひどいときほどじゃないけど、風当たり強いんじゃない?」

「とりあえず、診てもらえそうな病院を調べてみる」

 別室の凛太郎くんが目覚めたのかぎゃーと泣き声が上がり、絹さんがとんでいく。

 外に出られる格好をしている私が病院に連れていってもいいと思ったが、咄嗟にすずくんのことが浮かぶ。
「訪問診療に来ている鈴木先生に相談してみます!」

 離れに戻ってスマホを手にし、母屋に戻りながら、庭で立ち止まって耳にあてる。なかなか応答がない焦りで、暗闇から響く虫の声が呼び出し音と共鳴するようにエコーがかって聞こえる。諦めようと思ったとき、怪訝そうな声が耳に飛び込んでくる。状況を説明すると、彼は力強い声で畳みかける。

「すぐ行く。容体によっては、俺が病院に連絡して入院できるようにするから安心して」

 20分も経たないうちに、クリニックの車ではなく、すずくんのハイエースが家の前に止まった。ワイシャツとチノパンの上にしわのないコート型白衣を羽織ったすずくんは、おじいちゃんの息遣いを一目見ると、カバンから聴診器を取り出す。ベッドサイドに膝をつき、「清司きよしさん、医者ですよ」と優しく声を掛け、パジャマの胸元から聴診器を入れる。

「肺炎を起こしていますね。レントゲンを撮れば肺が白くなっているでしょう」

 すずくんはおじいちゃんの指先にオキシメーターをつけると、かすかに眉を上げる。
「血中酸素濃度が低いので、酸素吸入します」

 車から酸素ボンベバッグを運んできた彼は、慣れた手つきでベッドにラックを取り付け、おじいちゃんの鼻と口元を覆うマスクをかぶせる。しばらくすると、呼吸が楽になったようで、顔色もいくらか改善してくる。

 義母が遠慮がちに尋ねる。
「あの、誤嚥性肺炎でしょうか? あたし、食事はちゃんと刻んでいたんですけど……」

 すずくんは、義母に穏やかな眼差しを向ける。
「誤嚥性肺炎の可能性はあります。ですが、誤嚥性肺炎は、睡眠時に飲み込んだ唾液が気管に入ってしまって起こることも多いです。食事が原因ではないと思いますよ」

「そうなの。ああ、よかった」
 義母が責任から解放されたように気の抜けた声を出す。

 彼の手際の良い処置と対応、恵まれた容姿の相乗効果は、強烈な存在感を放っている。彼が、その存在だけで、周囲の嫉妬を引き起こしてしまうのも無理はない。私のような凡人は一生抱くことのない悩みだが、彼なりに傷つき、身を守るために、必要以上に周囲に気を遣っているのかもしれない。それに気づくと、細い背中が痛々しく映る。

「入院して治療しましょう。クリニックで紹介している病院をあたってみるので、服用している薬とお薬手帳を用意してください」

 義父はボストンバッグを用意し、夫と絹さんに保険証や眼鏡、薬、お薬手帳をまとめるよう指示を出す。

「清司さーん、頑張りましょうね!」
 すずくんは、おじいちゃんに声を掛け、スマホを耳にあてる。

「すずくん……。おじいちゃん、大丈夫?」
 
 すずくんは「大丈夫」と目で力強く微笑む。
「間宮クリニック 鈴木と申します。至急お願いしたい患者さんがいます。救急の先生につないでいただけますか……。はい、お疲れ様です……96歳男性。肺炎の疑い濃厚。体温38.5度。酸素濃度88で肺雑音あり。病歴は前立腺がん……」

 2つ目の病院で知り合いにつながったのか、彼の表情と口調がやわらかくなる。
「……ベッド空いてる!? ツゲちゃんが当直で助かったよ。すぐ連れてくから宜しく。借り一つな」

 電話を切ったすずくんは、快活な声で告げる。
「市立病院が受け入れてくれます。私の車で連れていくので、どなたか付き添って下さい」

 すずくんを呼んだのは私で、すぐに外に出られる服装なのも私だ。
「では、私が」

 すずくんは了解と頷いて続ける。
「身体をくるむ毛布か掛け布団を用意して下さい。私は車内で横になれるように準備をしてきます」

 すずくんが車に戻った後、絹さんが刃物を振り回すような口調でまくしたてる。
「おじいちゃんと一番遠い澪さんが行くのはおかしいんじゃない? あの医者と仲いいし、実はできてるとか? 澪さん、やっぱり、魔性の女なんじゃない?」

 バカバカしくて話にならないが、一番遠い私が手を上げてしまったのが軽率だったのは言う通りだ。全員の刺さるような視線が向かってくるが、やましいことなど何一つない。

「確かに、おじいちゃんが一番安心する方が付き添ったほうがいいですね。それから、ご指摘のようなことは100%ありません。先生にご迷惑ですから、おかしなことを言わないでください」

 すずくんの性的指向は口に出せないが、彼の評判が悪くなり、仕事に響くことだけは避けなければならない。

 すずくんが戻ってくると、夫がその場を収めるように口を挟む。
「俺が付き添います。宜しくお願いします」

「わかりました。車に運ぶのを手伝ってください」
 すずくんと夫は、おじいちゃんを毛布にくるんで車に移す。

 ハイエースを見送ると、背後にトレンチコートを羽織った絹さんが立っていてぎょっとする。
「澪さん、あの医者とよく会ってるんだってね。結翔が、澪さんが彼にいろいろ入れ知恵されてるって、すごい心配してたよ」

 夫が絹さんにそんなことを話しているのは不愉快だが、隠すことは何もない。むきになっていると思われるのが嫌で淡々と答える。
「彼は中学の同級生で、ただの友人です」

「だったら、どうして何度もご飯行ったり、結翔が友達と話してる場に張り込んで会話を録音したりするの? 結翔が心配しているんだから、もう会わないほうがいいんじゃない?」

「女性の友人と三人でしか会ったことはありません。それが、そんなに問題なら、元彼女と二人で会っている結翔さんはどうなるんですか?」

 暗闇で絹さんの表情はわからないが、これ以上話すことはない。離れに戻ろうと踵を返すと、絹さんの声が追いかけてくる。

「澪さん、移植を拒んでるんだってね。先月移植してたら、今頃おじいちゃんに妊娠の報告できたかもしれないのに」

 その言葉は真実が持つ力で胸を貫いた。虫の音が地中から湧き上がってくるように大きく響く。

                 
                ★
 病院からタクシーで帰ってきた夫は、母屋に行ってから離れに戻ってきた。

「お疲れ様。おじいちゃん、大丈夫?」

 ソファに腰を下ろした夫は、目元に疲れをさらしている。
「ああ。個室に入れて、酸素吸入をしてもらって酸素状態は良くなってきた。いま抗生剤の点滴をしてる。何日か抗生剤と酸素吸入を続けて様子を見ながら、原因になった菌を調べるそうだ。衣類や靴下は病院のをレンタルすることになってる。おやじが毎日、様子を見にいってくれるって」

 私は夫の傍らに座り、背中をさする。
「そう、よかった。何かお手伝いできることがあったら、遠慮なく言ってね」

「ありがとう。何かあったら、ぜひお願いする」

 夫は膝の上で手を組み、足元に視線を落として、低い声でつぶやく。
「じいちゃんが死んじゃうんじゃないかと思って、すげー怖かった……」

「うん。おじいちゃんは、結翔くんにとって、子供のときにお父さん代わりになってくれた大切な人だもんね」

「忙しくて、あまり介護を手伝えないけど、じいちゃんが生きていてくれることが心の支えなんだ」

「その気持ちはよくわかるよ。きっと、おじいちゃんは良くなって、家に帰ってくるよ」

「当たり前だろっ!」

 夫の口調は、おじいちゃんが戻ってこないことは絶対にないと断言するかのように力強く、失うことへの心からの怯えが伝わってくる。

 夫は視線を上げ、私と目を合わせる。
「澪、俺はじいちゃんに子供を見せたい。今日のことで、じいちゃんにいつ何があるかわからないと実感した。だから、治療を再開してくれないか?」

 懇願した夫は、希望を探るように私の目を覗き込む。

「うん。私も同じことを考えていた。さっき、絹さんに、先月移植してたら、今頃おじいちゃんに妊娠の報告できたかもしれないのにと言われて、本当にそうだと思ったよ……」

「本当に……?」

 夫の目がうっすらと潤む。

「大学病院の予約を取るね」

「ありがとう……、ありがとう、澪……」

 私の脚元でひれ伏す夫に、呆気にとられながら、治療と入試を両立させようと心に決める。

「そうだ、すずくんに御礼言っとかないと」

 スマホを取りにいく私の背に、夫の棘のある声が飛ぶ。
「俺が言っておいたからいいよ」

「そう。でも、一応私からもLINEしとく」

「澪、あの医者に関わるのはやめたほうがいい」

「どうして?」

「あの医者に気があるのか? イケメンだからな」

「は? そんなわけないでしょう。変なこと言わないでよ」

「確かに、すごい格好良くて、できる人だし、今日は助かった。けど、あの医者は評判が悪い。これ、見てみろよ」

 夫はスマホを操作し、医療機関の口コミサイトの画面を見せる。

 そこには、目をそむけたくなるような誹謗中傷が投稿されていた。すずくんから聞いてはいたものの、実際に見ると、彼がどれだけ傷ついてきたかが胸に迫る。

「彼、S病院の御曹司なんだってな。中学の後輩が今年からS病院で理学療法士してるんだけど、彼は何かトラブルがあって追い出されたと言ってた。火のないところに煙は立たぬだよ。じいちゃんのところに来るのも、やめてもらったほうがいいな」

「彼が嫉妬や逆恨みされて、ネットで誹謗中傷されているのは私も知ってる。それが誤解であることも。今夜の彼の対応を見て、そんな人ではないとわかったでしょう? おじいちゃんにも本当に良くしてくれてるよね」

「確かに、今日は本当に助かった。じいちゃんとおやじが、あの医者を信頼してるのも知ってる。でも、人の会話を無断で録音する奴だぜ。澪にも入れ知恵してるんだろ? もう縁を切れよ」

「あれは、あなたと裕美さんが会ってるという噂を聞いて、本当か確かめに行くとき、彼に協力してもらったの。もとはと言えば、あなたの行動が問題。私がすずくんと瑠璃子と三人で会うのが嫌ならやめるけど、あなたも裕美さんと二度と会わないでね」

 分が悪くなった夫は、私のへそを曲げてはならないと思ったのか、話を打ち切る。
「もう、この話は終わりにしよう。これから、治療頑張ろうな」