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連載小説「クラリセージの調べ」5-5

 瑠璃子とすずくんの意見が聞きたいので、新しくできたスペインレストランに集まってもらった。忙しい週末に都合をつけてもらったので、私のおごりにする。 

 一部始終を聞いた瑠璃子は、前菜に頼んだスペインオムレツを切り分けながら大きな瞳を見開く。
「すーちゃん、強気に出たね。昔から、いつもは穏やかなのに、一旦決めたらてこでも動かないほど頑固だったしね。体操部でもそうだった」

「やめてよ、恥ずかしい。あの頃とは違うよ」

「いや、本質は変わってない。結翔の子供を欲しいと思えるようになるまで移植しないのは正解だと思うよ。それで、これから結翔と、どうしたいの?」

 瑠璃子とすずくんの皿に地中海風サラダを取り分けながら答える。
「裕美さんときちんと切れてほしい。それから、私と意見が対立したときは、実家や裕美さんに逃げないで、互いに歩み寄るために話し合って解決してほしい」

「今回、結翔が母屋に逃げちゃって、親離れできない男だって気づいたのか」

「うん。裕美さんが言うには、彼はファミリーコンプレックス、略してファミコンだって。言い得て妙」

 ツボにはまった二人は弾けるように笑いだす。
「何それ、ゲームみたいでウケるんだけど」
「マジウケる」

「私もそう思ったけど……、人のこと言えないと思った。
 今更、恥ずかしいけど、うちは両親が地元進学校から地元国立、教師というルートで、それを誇りにしてる家なんだよね。私は出来損ないで、学歴も仕事も両親や祖父母が期待する通りにならなくて、がっかりさせてしまった。それが、ずっと私の中でコンプレックスになってるんだ。
 彼らは、私が子供を作って、家庭を築いて落ち着くことを期待している。だから、私も両親や祖父母に孫を見せて、彼らを喜ばせることに固執している。もちろん、子供は私自身の望みでもあるけど。そういう意味で、私もファミコンで、似た者同士かも」

「うーん、俺も耳が痛いな。俺も親父に軽蔑されたくない、認めてほしいという気持ちがあるからな」

「その意味では、みんな多かれ少なかれファミコンかもね。結翔の問題は、実家から精神的に自立できてなくて、自分の家庭を守る覚悟がないこと。男子をつくって市川姓を継がせて、ご両親を喜ばせたいのはわかるよ。けど、それが妻のすーちゃんの心身に負担を掛け過ぎるなら、結翔は夫婦でやっていくことにシフトするくらいの柔軟性を持つべき。彼が一番に守るべきは自分の家庭なんだから。どうしても子供が欲しくて、すーちゃんも受け入れるなら、養子を迎えるのもいいと思う」

「瑠璃子、冴えてるね……。彼がそれくらい頭が柔らかかったら、今ごろ裕美さんと一緒になれてたよね。私も、彼がそういう人なら、不妊治療をできるだけ頑張って、限界がきたら見切りをつけて、養子をもらうのを受け入れると思う」

 黙って聞いていたすずくんは、オリーブをつまみながら、諭すように話し出す。
「二人は夫の理想像を語ってるけど……。俺の周囲にいる既婚男性は、仕事で手一杯で、家では母親と奥さんの板挟みになって右往左往しているのが多かったけどな。名医と慕われてる先輩の医者でも、家庭では不器用で、口下手で、頼りない夫だった。何歳だとしても、初めての結婚なら、そうなるのも無理ないよ。
 奥さんが夫のプライドを傷つけないように持ち上げながら、頼りになる夫に育てていくことも必要じゃないか?」

「言われてみれば……。結翔くんの本質は、純朴で明るい人だとわかってるし、ここからがスタートだと思って関係を築き直すべきかな」

 すずくんは自分の言葉が響いたことに、満足そうに目を細めて言い添える。
「結翔さんが元カノに頼ったことは、容認していいことではない。だけど、すーちゃんを守りたかったから、そうせざるを得なかったのだと思うよ。彼女との関係は、恋愛を過ぎた腐れ縁だと思うし、気に病みすぎないほうがいい。これからの関係は、すーちゃんが結翔さんを教育しつつ、居心地の良い家庭を作れるかにかかってると思うな」

「ありがとう。難しいけど……、頑張るよ。とは言っても、裕美さんは、夫のなかで手に入らなかった宝石のように輝き続けると思うんだ。自分の経験からもわかる」

 すずくんは釈然としない顔をしたが、それ以上は踏み込まなかった。

 ファドの哀愁漂うメロディにあおられ、胸の重しを打ち明けたくなってしまう。
「実は、移植を見送ったこと……、ずっと罪悪感があるんだよね。楽しみにしているおじいちゃんたちのことを考えると、私の気持ちだけで見送るのは勝手だとわかってる。私も35だし、お義母さんに言われたように、悠長なことを言っている余裕なんてない……」

「三か月前の血液検査を見た限りでは、おじいちゃんの内臓は安定してたよ。前立腺がんはあるけど、進行がゆっくりだから、寿命と同じくらいだろうな。認知症が進んでるから、怖いのは誤嚥性肺炎と転倒によるケガ。それに気を付けていれば当面の心配はない。早く、ご主人との関係が改善するといいな」

「ありがとう。それを聞いて少し安心した」

 罪滅ぼしのように吐露した自分が卑怯だとわかっていたが、考える時間があるとわかったことに安堵した。

「早く夫と話し合って、信頼関係を取り戻したいけど、実家に行ったままなんだよね……。来月から、義姉が里帰り出産で甥を連れて戻って来るから、余計に入り浸りそう」

「お姉さんと甥っ子が帰ってきたら、さすがに追い出されるんじゃない?」 

「そうならいいけど。ところで、すずくんは新しい病院探しているんだよね。決まりそう?」

「まだだけど、至急探さないといけない状況になった」

 瑠璃子が薄暗い店内でも好奇心むき出しとわかる瞳で問いかける。
「何かあったの?」

「俺のせいで、間宮クリニックに迷惑かけてるんだ……。デジタルタトゥーが厄介だと実感したよ」

 熱々のパエリアが運ばれてきたので、取り分けるために、暫し会話が中断される。

 すずくんは、ムール貝の身をフォークで器用に外しながら話し出す。
「ちょっと前から、医療機関の口コミサイトに、間宮クリニックを悪く書かれるようになった。俺を名指ししていたり、『四角い眼鏡かけた若い医者』とか明らかに俺だとわかる書き方もされてる。『このクリニックでは、若いほうは危ないから、院長を指名したほうがいい』とも書かれた」

「書かれたことに、心当たりないんでしょ?」

 瑠璃子の問いに、すずくんは下唇を押し上げて不満をあらわにする。
「身に覚えがないことばかりだよ。『出す薬を間違えるから危険』とか、『言う通りにしないなら診ないと突き放された』とか。ひどいのは、『イヤらしい目で見られた、ホモに違いないから男性は行かないほうがいい』とか。
 俺は院長に比べて、知識も経験も圧倒的に不足してるのは否定しない。患者さんの意志を尊重することを心掛けているけれど、場合によっては厳しい口調でアドバイスしてしまうこともある。でも、書かれたようなことをした覚えはないし、患者さんをそういう目で見たことも絶対にない。今のところ、患者さんとトラブルになったこともない」

「院長先生は、すずくんが書かれるようなことをする人ではないと、わかってくれているんでしょう?」

「うん。院長は俺を信頼してくれてるし、書かれたような処方ミスがなかったのもカルテで確認してくれた。院長がサイトの運営会社に連絡して、悪質な書き込みを削除してもらった。サイト側によると、悪質な書き込みをするユーザーは、漫画喫茶とか快活クラブとか、個人の特定が難しい場所から書き込んでるらしい」

「そっか。書かれるたびに削除申請だとイタチごっこだね。院長がすずを大切にしてくれる人でよかったね」

「うん。だけど、一度書かれたら残るから、職探しに障るのは覚悟しないとだな。書き込んでる犯人だけど、兄貴と飲んでたとき、可能性のある奴がわかった。実家の病院の人間ドックセンター長をしている40代半ばの医者。陰気で、コミュ障気味で、患者さんにもスタッフにも評判が宜しくない。俺と兄貴は、週に一日はセンターで勤務してたけど、彼が俺たちに敵意を持ってるのはずっと感じてた。俺たちが戻ってきて、自分の地位が脅かされるのを心配してたんだろうな。彼が病院に不満を持っていて、医療機関の口コミサイトに悪意ある書き込みをしていると、事務員やナースが本人から聞いたそうだ。歓送迎会の席で酒が入ってたから信憑性は低いけどな。
 間宮クリニックへの書き込みが始まった時期は、兄貴が親父に、俺が戻りたいと言っていると伝えた時期とかぶる。親父は、既に泌尿器科にはT大の医者が入っているので、俺を人間ドックセンターに入れようと、センター長に打診したそうだ。彼は親父に良くない返事をしたらしい。彼は、それをきっかけに、俺がこの辺りにいられなくなるように書き込みを始めた可能性がある。俺が戻ったら、いずれは自分の地位が脅かされるかもしれないと危惧したんだろうな」

「そのセンター長、処分できないの? 勤務先の悪口を書き込んで、不利益を与えてるじゃない」

「書き込んでるのが彼だと特定できないし、スタッフが本人の口から聞いたのも酔ってたときだからな。親父も、病院を低評価する書き込みに頭を痛めてきたらしい」

「だからって、何も悪いことをしていないすずが小山にいられなくなるのは悔しいじゃない!」

「間宮クリニックの院長に迷惑をかけるのは心苦しいから仕方ない。できるだけ早く、県外に勤め先を探して、次の先生に引継ぎをして、きりのいいところで辞めようと思う。岩崎とすーちゃんと話すようになって、俺らしい道を探さなくてはと思ってたから、いい機会になったよ」

「すずが納得しているならいいけど……」

「おじいちゃんにとっては頼りになる先生だったから残念だけど、すずくんがのびのびと働ける場所が見つかるといいね」

「患者さんには、中途半端で本当に申し訳ないと思ってる。年末までは続けてほしいと言われてるから、それ以降は次の医者にしっかり引き継ぐよ」

「私も、来年の春から娘と東京で暮らす予定」

「え、そうなの?」
「マジで?」

 瑠璃子は憑き物が落ちたような表情で頷く。
「葉瑠は、インターナショナルスクールに通って、外国人の友人もいる甥姪をずっと羨ましがってた。彼女に、叔父さんと叔母さんの家の子になりたいって言われたことが、ずっとひっかかってたんだよね。
 私が東京で職に就ければ、学費のかかるインターは無理だけど、国際色豊かで多様な価値観を持つ生徒がいる区立小学校に通わせられる。姉は在宅でフリーランスの編集者をしてるから、私が仕事で忙しいときは葉瑠を預かってくれる。だから、早く私の就職先を決めないと」

「瑠璃子、すごい。母と娘の希望を同時にかなえられる方法を見つけたね」

「葉瑠のせいで、私がいろいろなことを諦めたと恨みたくないからね」

「東京でナースの仕事を探すのか? 向こうなら、給料のいいとこがすぐにみつかるだろうな」

「ナースだと時間が不規則で、葉瑠の世話で姉に負担をかける。だから、医療ビジネスを狙いたい。ナースの知識も無駄にならないし」

「ああ、ここ10年くらいで、ドクターの起業家が増えてるよな。俺の先輩にも、AIを活用した画像診断機器を開発するスタートアップの立ち上げに加わった人がいる」

「私の親友も、医師が立ち上げたオンライン診療システム開発のスタートアップでシステムエンジニアをしてる。コロナの影響で、すごく業績伸ばしてるみたい」

「まさに、そういうところで働きたいの! とりあえず、春までは花房クリニックで働くよ。土曜日に入る代わりに、フサちゃんが来る日を休みにすることにした」

 殻を破った二人から刺激を受け、自分の人生を前に進めなければという思いが高まっていく。夫との関係改善を目指しつつも、経済的に自立できる基盤を早く整えなくてはという思いが募る。