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狂人日記 私という病

きょうき 【狂気】

常軌を逸していること。またそのような精神状態。古代社会では狂気の人が神の声を伝えると尊ばれたが、中世になると悪魔憑きとして迫害されるようになる。偉大な芸術が狂気から生まれ、社会的リーダーの中に「狂ひ人」がいたことが医学的に解明されて、この傾向に拍車がかかったといい、哲学的面でも狂気と実存との関係が注目されつつある。

この候、春を感じ暴風、花粉そして頭痛。
暖かくなると変な人が増えるから注意しよう、そんな言葉が飛び交う世の中。

私の中にある「狂気」は然程、季節には関係しないと考えている。

小学生の頃、家にあった太宰文学を読み漁り、なんとなく悦に浸った。誉である。

そんな頃から、私という人間を確立した、子供の頃に親から愛されなかった、いや、嫌われていた、という強烈なコンプレックスがやってきた。

両親は個別に、私に対し、君はいづれ気が狂い、その果てに死ぬ、と断言した。
故意による生と死の狭間を無数に見た。
絨毯は血に染まり、鉄の匂い、散乱する刃物、人間とは思えない、生気のない人形のようなその顔。
これは30年以上経った今も、脳裏に染み付いている。

狂気とは、手の届く、すぐそこにあった。
「死」という選択もすぐそこにあった。

しかし、もの想うという事は、なんだかカッコよくて、希少性があって、反骨精神とか、ヴィヴィアンウエストウッドとか、奇形とか、マルタンマルジェラとか、アドバンストチキューとか、洗練されているモノなのでは?

私はすっかりもの想う事に気取っていた。

その後、夢野文学に出会う。
まさしくコレだ。
私の狂気とは夢野久作の饒舌体にある。
そう信じた。

その途端、太宰文学が陳腐に思えてきた。
物質的な絶望などなく、全てが形而上。己が己を苦しめ、複雑にし、病み、女を引っ掛けて度重なる心中。
しかし、芥川賞欲しさに川端康成に執拗な嫌がらせをする図太さは持っている。
呆れた男である。
大嫌いになった。
同時に私自身の、その気取った思想を恥だと感じた。

それから社会に出た私の狂気は、恋愛において出て来ることが多かった。
交際してそれなりのトキが経つと、相手に執着し、結果振られる。

20代後半、それが一番酷かった。
外国人と交際した。
その外国人には2人の妻がいて、2番目の妻に対して嫉妬に狂った。
その時期の私は外国を転々とし、帰国する度に税関から個室に連れて行かれる常連になった。

ある時、ある国の彼の自宅で、SPから拳銃の扱いを教わった。
それから、ずっと想像するようになった。

彼の2番目の妻が暮らす、ある国のペントハウスに気が狂った私が現れ、右手に持つ銃で彼女のこめかみを撃ち抜く。
寝ている時間以外、ずっとそれを想像した。
妄想ともいう、それが理想、そうありたいという気持ちもあったので、完全に思想犯罪である。
それが解けるまで私は犯罪者だった。

思想殺人に時効がないのならば、今、出頭しても良い。要はこの頃は狂気の塊だった。

そんなある日外国人の彼は言った
「君は、何でも物事を自分からコンプリケートにしている。本来はもの凄くシンプルな事である」
それを言われた時、ハッとした。

私はあの、愚かな日本人代表、太宰と同じだった。
上と下がひっくり返って、しゃがみ込みたくなった。

私が持つ形而下の狂気など、なんてこともない、単なる出来事。
形而上の狂気こそ、日本人が求める「不完全な美」なのかもしれない。
だからこそ、太宰文学が愛されるのかもしれない。

そんなことを想う今日。

あれ、冒頭、季節は関係ないと書いたが、やはり春だから頭がおかしくなっているのかも。
四季折々の美を感じることができる日本は特別である。
でもこの時期、私のような変な人が出るので外出には十分ご注意ください。

終わり


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