「自分で考えることの難しさ」


 先日Eテレで放送された番組(「哲子の部屋」~どうしたら“恋”できるの?)が興味深いものだった。内容をかいつまんで紹介したい。
 日本では近年、恋愛をする成人の人口が減少し続けている。実際、国立社会保障・人口問題研究所のデータによると、18歳〜34歳の未婚で異性の交際相手がいない人は年々増加している。番組では、哲学者の千葉 雅也さんが、その原因を「情報が溢れる便利な時代になっているからだ」と分析していた。千葉さんが言うには、情報化社会になると、“偶然の出会い”というものに、男女共に賭けることができなくなる傾向が強まるという。ショッピングを例にとって説明すると、私たちは現代、インターネットでどこでもいつでも物を買う事ができる。だから、お店で偶然何か欲しい物に巡り合っても、「もっとネットで良い物がある」とか「今買わなくても良い、後で買おう」と考え、買い物を先延ばしにする傾向がある。若い男女の出会いにもこれと同じ事が起こっていて、素敵だなと思える異性と出会っても、あたかもネットのカタログで商品を選ぶように、その偶然の出会いを生かそうとせずに「また出会える」、「きっともっと良い人がいる」と考え、恋愛を先延ばしにしがちだというのだ。それが良いことなのか、悪いことなのかはさておき、我々は「偶然の出会いを見逃しやすい社会に生きている」という分析はとても興味深いものだ。
 この番組を見て、情報化社会の持つ問題を色々と考えさせられた。例えば、情報があまりにも多い社会では、人は「思考停止」に陥りやすいのではないだろうか。情報を集めただけで(深く理解することなく)満足してしまうという危険性があるように思う。私自身の実感として、情報を集め、選択する事にばかり時間を使ってしまって、一つの事を深く考えていくことに時間をかけることができなくなってしまっているように感じる。あるいは、特定の誰かと深く知り合っていくための努力を自分に課すことを、怠りがちになっているかもしれない。もちろん情報を上手く集めるということも、現代社会を生きる上で不可欠な能力である。全てが悪いわけではないが、便利になることに伴う問題点についても、自覚的である必要があると思う。

 さて仏教の視点から「思考停止」の問題を少し考えてみたい。釈尊は「経典」の中で次のように述べている。

① すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身を引き比べて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。(釈迦『ダンマパダ』129)
② 自己こそ自分の“あるじ”である。他人がどうして(自分の)“あるじ”であろうか?自己をよく整えたならば、得がたき“あるじ”を得る。(同前、160)
③ この世で自らをともしびとし 自らを頼りとして 他人を頼りとせず 法をともしびとし 法をより所として 他のものをより所とするなかれ(釈迦『仏陀最後の旅』2・26)

ここに挙げた三偈に仏教の思想がよく現れていると考える。仏教とは冷静に、自律した自分の智慧を磨き、その智慧によって自分や他者の苦悩の原因を探求し、それを解決するべく実践するものであり、自・他共に幸せになることを目指す教えである。
 人は、どれだけ多くの情報を得ても幸せにはなれない。自分の問題をしっかりと自分で考えていくことが、善く生きることであるとブッダは説いている。ただ、でたらめに生きるのではなく、真実を見定めていくことが大切だと説かれる(②、③より)。
 さらに、自分だけが幸せになって終わりではなく、すべての人が「恐怖や欠乏からまぬがれ、平和に生きる」ことが求められていく歩みでもあるのだ(①より)。
 このお釈迦様の勧める生き方は、厳しいものだが、現代の我々に示唆を与える。
 現代人は、情報を手に入れると安心する。分かったと思い込む。だが、情報に心を占領された者は考えることを止めてしまう。考えるとは、情報の奥にあることを見極めようとする営みでもある。
 自分の頭で考えることはとても勇気のいることだ。自分の人生を自分の責任で生きること、これもまた難しいことだ。しかし、自分で考えるということほど重要なことはないと思う。既存の考えや権威におもね、自ら考えることをやめてはならない。情報を集めることに必死になって、自分で考えることをしないと、いつの間にか考えることのできない大人になってく。ただただ、集めた情報を、出し入れするだけのロボットのようになってしまう。
 私たちに今、必要なのは情報を集めることよりも、むしろ立ち止まることなのかもしれない。自己の人生の課題にじっくりと向き合うこと、他者の痛みに目を向けること。どこかで泣いている人がいれば、そのうめき声に耳を傾け、一緒に考えることではないか。今も多くの社会問題が存在する。その一つ一つに、もっと足を止めていくべきではないだろうか。仏陀ならどうしただろうか。泣いている人と、一緒に悲しんだのではないだろうか。
 考えるとは、安易な答えに甘んじることなく、揺れ動く心で、問いを生きてみることだ。真に考えるために人は、勇気を必要とする。考えることを奪われてはならない。私たちは今、武力や物量を誇示するような勇ましさとは全く異なる、内なる智慧の働きをよび醒まさなくてはならない。仏陀は常に私たちに問いかけている。

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