「見くびられてはいけない」考

自分や周囲が10代、20代だったころを考えると、若い頃はどうしたわけか「のし上がってやる」「みんなをあっと言わせるような人間になってやる」と鼻息荒くなる。それはきっと、若者が革新をもたらすための重要な遺伝子なのだろうから、これはこれで大切かも。

30代に入ったころ、「のし上がることができないなら犯罪でもいいから目立ってやる」という犯罪が目につくなあ、と感じていた。私は団塊の世代だし、そうした気持ちで犯罪を犯すのが、母集団の大きさのせいで増えていたのかも。私自身、そのころは「何か成し遂げなければ」と焦っていた。

しかし40代になると、「何かを成し遂げるにも人の力が必要、いかに人の力を借りることができるかが肝」ということがよく分かるようになった。自分一人で成し遂げることなんてちっぽけ、それよりはたくさんの人の力を借りて総体として何かを動かしたほうがよい、ということを理解できるように。

たくさんの人の力を借りるには、自分の力不足をさらけ出し、「だからあなたの力が必要なんです」と頭を下げることが大切。そしてたくさんの人のパフォーマンスで物事が動く奇跡に驚き、感謝することが大切。すると集団が有機的に動き出し、一人ではなし得なかったことが実現できたりする。

劉邦や光武帝、劉備という人物はそういう人だったのだろう。自分は空っぽの器と化し、その器の中に様々な才能を詰め込んで一杯にする。才能と才能が有機的に結合し、一つの生き物のように動き出す。自分がパフォーマンスを発揮するのではなく、みんなの力を引き出すことが大切。

そのためには、自分が愚者であり、弱者でもあることを平気で認め、人の力を認め、そのパフォーマンスに驚くことが必要になる。それによって多くの人が快く力を貸し、楽しんで有機的に活動できる地盤が形成できるのだろう。ところが、「見くびられてはならない」という心理があると、それができない。

これまでスタッフ募集で何人かの男性を面接したことがあるけれど、「見くびられてはならない」という呪いが、履歴書にも、また面接にも表れていて、「あ、他の人とうまくやっていけなさそう」と判断せざるを得ず、断ったことが多数。こうした人は能力自慢をすごくする。

その人はもしかしたらそんじょそこらの人より有能なのかもしれない。しかしいくら有能でも、それを鼻にかけ、人を見くびるような言動、自慢ばかりする行動をとるようでは、当人のパフォーマンスがよくても、他の人たちのモチベーションがダダ下がりになる。全体としてはパフォーマンス低下。

いわば、心臓が必要以上に元気過ぎて他の内臓を弱らせる奇病にかかるようなもの。どれだけ心臓の能力が高くても、他の臓器を弱らせるのであれば、生命体全体としてはパフォーマンスが落ちる。生命体のパフォーマンスは、調和によって決まるのだから。

「見くびられてはならない」という心理は、会社などの様々なグループ運営ではかなり邪魔になる。はっきり言えば、有害なことが非常に多い。むしろこんな心理を持ち合わせていると孤立しがちで、本人を追い詰めることになるのに、なんでこんな心理が生まれてしまうのだろう?

2000年代、「勝ち組・負け組」という言葉が流行った。負け組になったら社会的にスポイルされる、なんとかして勝ち組にならなければ、と、我が子にエリート教育を施し、学歴の勝ち組、就職の勝ち組に何とか残ろうとした人たちが増えた。

「見くびられてはならない」は、こうした社会情勢が増強した面もあるのかもしれない。しかし、自分は勝ち組、あいつらは負け組、という傲慢な心理は、当然ながら人を見くびる心理を生み出しやすくなる。そして人間は、自分を見下す視線に非常に敏感にできている。その視線を感じた人は。

自分を見くびる相手のために決して動くまい、と心に決めてしまうだろう。仕事だから指示された分はやるけれど、それ以上はあいつのためになんか動くもんか、と決めているから、パフォーマンスが悪くなる。日本経済がぎこちなくなったのは、勝ち組・負け組論にかなり影響受けているかも。

人間は、人からバカにされること、見くびられることが大嫌い。なのに勝ち組・負け組という論は、「自分は見くびられる側としてみなされているのでは」という不安、恐怖を強めてしまう側面がある。それが余計に「見くびられてはならない」という防衛反応を呼び起こしているのかもしれない。

しかし、「見くびられてはならない」という反応は、相手を敵とみなし、心を許していないという表情として受け取られる。そして相手に、「ともすればこの人はこちらを見下そうとするのではないか」と不安を与える。それを感じると、相手も警戒して心開かない。悪循環に陥ってしまう。

勝ち組・負け組論は、実にくだらないと思う。そして、勝ち組ばかり収入などで優遇し、負け組の賃金を抑えようとするこれまでの社会的な圧力も気に入らない。これは社会を分断し、社会全体のパフォーマンスを悪くする元凶だったように思う。

私にとって能力とは、人様のお役に立てるための道具であって、人よりも優れていることを自慢し、人を見下すための道具ではない。なのになぜか後者のほうに重心を置く意見がこれまで強かった。しかし人を見下す能力は、誰からも拒絶され、嫌われる。ならばそんな能力、役に立たない。

「私にはこの能力があるけれど、あなたの能力がなければ役に立たない。互いに支え合い、この課題を一緒に解決しませんか」という、有機的なつながりを作れて始めて、能力は活かせる。いくら元気な心臓でも、体内から取り出せばしばらくしたら腐るしかない。有機的つながりがなければ意味がない。

私は、いろんな人のいろんな能力や努力に驚き、感謝する社会が望ましいように思う。自分にいささかの能力があるとすれば、その人たちのお役に立てるために生かすことが大切で、その人たちをバカにするために能力を使うなら、有害無益。

「見くびられてはならない」と身構えるのではなく、まずは相手を受け入れ、周囲のために能動的に働くその能動性に驚き、感謝すること。すると相手もあなたの能動性に驚き、感謝するようになる。そこから有機的な協力関係が生まれ、あなたの能力もその組織になくてはならないものとして取り込まれる。

「自分にはこういう能力がある」と自慢するより、「あなたにはこうした能力があるのですか!」と驚き、面白がること。そこからスタートするようにしたら、スムーズに人間関係を構築し、あなたの能力を集団が生かそうとし始める。それは、あなたが相手の力を認めたから生まれた運動。

「見くびられてはならない」なんて心理を生み出した日本社会のこれまでのデザインは、実に粗悪だったように思う。日本の資源は人材しかない。人材を生かすには、有機的な運動が発生する必要がある。そのためには、人を見下そう、見くびろうとする心理が発生しにくい社会をデザインする必要がある。

すべての人が能動的に、能力開発を進めることが楽しくなるように、まずは相手の能動性に驚き、面白がること。すると、相手もあなたの能動性に驚き、面白がってくれるようになる。すると、みなが能動的になり、工夫を重ね、課題を次々に克服していく集団を形成することができる。

他者の工夫や挑戦、発見に驚くこと。これを社会的コンセンサスとして多くの人が実施するようになれば、日本はもっと有機的に、力を活かしあう社会に変えられるように思う。もう一度私たちのマインドセットをデザインし直す必要があるように思う。

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