習熟度別で学びながら同じ教室で過ごす

一斉授業だとついていけない子どもが出てくる。その話になると「習熟度別クラスを」という話になることが多い。習熟度別クラスを全否定するつもりはないけれど、同級生と一緒の空間にいられないのも、学校が友達付き合いを学ぶ場所でもあることを考えると、安易に実施できないように思う。

かと言って、できない子に授業を合わせるとできる子が退屈する「浮きこぼれ」がひどくなる。一斉授業というのは、「落ちこぼれ」や「浮きこぼれ」のどちらかが発生しやすい。もっと一人ひとりに合わせた学習スタイルはないものか?

私は、学習の進んでる子も、そうでない子も同じ教室で過ごし、休み時間には一緒に遊ぶことが可能なのでは、と思う。それぞれが自分の進度で学ぶことは可能だと思う。タブレットやパソコンが一人ずつに配布されている今なら。

子どもたちが通っているそろばん塾では、同じ教室に級や段が違う子どもたちが一緒に学んでいる。それぞれが自分に与えられた教材で練習し、一定程度習熟したら試験を受け、合格したら次の級を学習。このように、そろばん塾では、違う進度の子どもたちが同じ教室で学んでいる。

これは一般の小学校や中学校でも可能なのではないか。先生が一斉に一方的な授業をしなくても、それぞれの子どもがタブレットで自分に合った授業の動画を見、その後課題に取り組んでみて、全部理解してできるようになったら次、というやり方。

先生は授業をする人ではなくなり、それぞれの子どもの進捗具合を管理し、うまく進んでいる子はそのまま進めさせ、躓いている子どもがいたら、そこをサポートする(あるいはできる子に教えてもらう)。そうすると、それぞれの子どもの進度で学習できるのではないか。

ただ、動画と生身の人間では臨場感がまるで違う。しかも動画は自分に語りかけているわけではない。そのため、身が入らない子もいるだろう。そうした子達に刺激を与えるため、国語なんかはなるべく一斉授業的に、みんなで読み合わせするとよいかもしれない。

しかし算数・数学なんかは、子どもそれぞれの進度で進めた方がよいように思う。高校生になっても分数がわからないままの子が結構いる。成績が良いようでも、「上の中」以下だと、小学校・中学校の内容でどこか欠落がある。理解不十分なことがある。それをきっちり習得するためにも。

それぞれの子どもの進度に合わせた学習をしたほうがよいように思う。タブレットが配布されている今の学校の状況なら、それが可能なように思う。
ただし、やり方がずいぶん変わるし、現場ならではの問題が出てくるだろう。それらを一つ一つ解決していく工夫も必要。

・すべての単元の授業を動画として閲覧できるようにしておく必要がある。
・マスターできたと判断できる教材づくりが必要。
・進捗具合を担任の先生が把握できるシステムが必要。
・躓いている子どもをどう手当するか、その人員は確保できるか。
などなど。

「飛び級」というのがある。無茶苦茶成績がよい子は、学年をすっ飛ばして進級し、なんなら大学にも早くに入学させたりする制度。でもこの飛び級、あまり成果は出てないと言われる。子どもとしては飛び抜けてできるかもしれないけど、大人になるとパッとしないことが多いらしい。

一つの問題に、「友達ができない」ということが大きいらしい。早くに大学に飛び級で入学しても、同級生は酒を飲みに行くのに自分はそれができなかったりする。性的成熟度も幼いため、恋愛も難しかったりする。このため、孤立とまでは言わなくても、やや人間関係が寂しいことになりやすいみたい。

仕事でも学問研究でも、人間関係はとても重要。一人でできる仕事ってあまりない。学問研究でも、色んな人と交流しながらでないとうまく進めない。なのに幼くして飛び級してしまうと、夜遅くまで飲み会に付き合うことも難しいから、深い人間関係を作るのに失敗しやすいみたい。

ならば天才的な学習進度の子も、似たような年齢層の子どもたちと同じ空間、同じ時間をなるべく過ごし、友人をたくさん持てる方が良いのではないか。人間関係を学びやすいのは、そちらの方ではないか。

これと同じことが、いわゆる落ちこぼれの子にも言えると思う。習熟度別クラスに隔離されてしまうと、友達作りに影響が出るし、隔離されたことで自暴自棄になり、学習そのものを放棄することにもなりかねない。それよりは、同じ教室で過ごした方がよいのでは。

タブレットを用いて、それぞれの子がそれぞれの習熟度に合わせて学習する。一緒の時間空間を共有した感覚を味わえるよう、一斉授業も適度に取り入れる。教え合いを通じて、勉強の進んでる子は「教える」ことの難しさを学んでもらう。そうした全体のコーディネートに担任は徹する。

そんな学校ってできないかなあ、と思う。もうすでに試みられてるかもしれないけど。塾なんかはすでにやってるところがあるかもしれない。
教育は常に一斉授業で行われなければならない、というのは「思い込み」かもしれない。少し考えてみたい点。

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