諦め切るから能動性が生まれる逆説

民芸品の美を「発見」した柳宗悦は、「南無阿弥陀仏」という本を書いている。その中で「妙好人」という興味深い話が。何をされても「ありがたや」、意地悪されても「ありがたや」。その人のよさは飛び抜けていて、いつしか周囲も毒が抜かれていく。まるでトルストイの「イワンのばか」。

私はこの妙好人という、庶民でありながらちょっとした聖人めいた人間にどうやってなれるのだろう?と疑問を持っていた。そんな、何でもかんでも「ありがたや」と驚き、感謝するなんて、一体どういうこと?なんか気になりつつも、消化できずにいた。

そんな中、良寛さんのエピソードを読んだ。良寛さんの噂を聞いて面白くなかった船頭は、初めて良寛さんを船に乗せたとき、わざと水の中に落とした。袈裟が邪魔で溺れる良寛さん。もうダメだ、と思われたそのタイミングで、船頭は船に引き上げた。するとなんと良寛さん、「あなたは命の恩人です」。

船頭は戸惑った。自分がわざと水の中に落としたのはわかってるはず。むしろ「よくも殺そうとしたな!」と怒ると予期して、それを期待していたのに、予想外の反応。船を降りたあとも振り返り振り返り手を合わせ、感謝にたえない様子の良寛さん。
やがて船頭は激しく後悔したという。

なぜ良寛さんは、自分を殺そうとした船頭に、命の恩人だと感謝したのだろう?もしかすると、良寛さんは、気まぐれに殺されても仕方ない、と諦めている人だったのではないか。気まぐれに水に落とし、その拍子で殺してしまう。そういうこともあり得る、と。

船頭は良寛さんを見捨て、助けようともしない可能性があった。良寛さんはそれさえも仕方ない、と考える人だったのかも。そうして諦め果てている人だったからこそ、「そろそろ引き上げてやるか」と、船頭の心に仏心が生まれたとき、良寛さんは「奇跡が起きた!」と感じたのではないか。

船頭の心の中に、助けようという能動性が生まれない可能性は十分あった。そして良寛さんは、船頭がどう思おうが、どうしようもないと諦め切っていた。なのに助けようと思う能動性が生まれた。奇跡が起きた。良寛さんはその奇跡に驚き、感激したのでは。

良寛さんには、次のようなエピソードが。盗賊の被害に苦しんでる村を通過していたところ、盗賊と間違われて首まで生き埋めにされ、ノコギリ引きで殺されそうになった。たまたま良寛さんの知人が通りかかり、九死に一生を得た。知人は「なんで自分は盗賊じゃないと説得しなかったんですか!」と怒った。

すると良寛さん、「自分を盗賊だと信じ込んでるんだもの、殺されるより仕方ないじゃないか」と答えたという。勘違いで殺されることもあり得ること、と諦め切っていた。
仏教では「諦念」というのがとても重要な概念になっている。ああであってほしい、こうであってほしいと期待するのを諦め切る。

良寛さんは修行の果てに、この諦めの境地にたどり着いたのだろう。諦め切っていたからこそ、人に一切期待しないからこそ、殺そうとした船頭の心の中に助けようという能動性が発生したときに「奇跡が起きた!」と驚き、感激することができたのだろう。

もしかしたら妙好人という人たちも、江戸時代に民間で暮らす庶民でありながら、諦め切る境地にたどり着いた人たちだったのかもしれない。他人に一切期待しない。期待しないからこそ、他人の中に好意などの能動性が生まれたとき、「ありがたや」という気持ちが素直に現れたのかもしれない。

そんな諦め切った良寛さんだけど、諦めることができなかった人たちもいる。坊主。良寛さんは、坊主(僧侶)に対しては手厳しい批判をしていたという。同じ仏門にありながら堕落している様子を許せなかったのかもしれない。良寛さんも、坊主にだけは期待してしまったのかもしれない。

それを示すエピソードがある。良寛さんは旅の途中、「何か食べるものはないか」と店に立ち寄った。「こんな生臭なものしかございませんが」と、煮魚が出てきた。仏門なら食べてはいけないもの。でも良寛さんは感謝し、「うまいうまい」と言って食べた。その様子を見ていた若い僧侶は。

「なんて生臭坊主だ」と、良寛さんのことを軽蔑した。自分も腹は減っていたが、店の主人が勧める煮魚には手をつけようともしなかった。
その先の旅籠で、二人はたまたま同じ部屋になった。しかし蚊にひどくかまれ、若い僧侶は寝ていられない。しかし良寛さんは平気な顔して寝転んでる。

蚊をペチペチ叩き殺しながら、「よくこんなひどい蚊の中で寝ていられますね」と若い僧侶が呆れ気味に言ったら、良寛さん、「なに、わしは何でも食べる代わりに、何にでも食われることにしてるだけだよ」と答えた。

雷に打たれたようにショックを受け、うなだれた若い僧侶の様子に良寛さん、「ああ、つまらないことを言ってしまった、許しておくれ」と平謝りに謝ったという。
このエピソードからも、良寛さんは僧侶に対しては「期待」を捨てきれなかった様子が見て取れる。

自分の命さえ諦め切る。その様子をうかがえるエピソードが他にも。ある地方で大地震が起き、たくさんの人が亡くなった。その地方の僧侶が良寛さんに手紙を書き、「これまでの修行がなんの役に立つのか、私達僧侶はどうすべきでしょうか」と尋ねた。その返事に良寛さん、「死ぬときは死ぬがよろし」。

良寛さんは、「諦める」という、仏教が教える境地にたどり着いた人だったのかもしれない。諦め切っているからこそ、人の心の中に優しさなどの能動性が生まれたとき、その奇跡に驚くことができたのかもしれない。

私達は他人に対し、ああしてくれたらいいのに、こうしてくれるのが当然だろ、と「期待」する。そして期待通りに動いてくれないとき、腹を立てる。不満に思う。恨みに思う。たまたま期待通りにしてくれても「当たり前だ」と思って驚きもしない。感謝もしなかったりする。

でも良寛さんは修行の結果、他人の心は自分ではどうしようもない、と諦め切っていたからこそ、他人の心に優しさなどの能動性が現れたとき、奇跡が起きたと驚き、喜ぶ、子どものようなみずみずしさを持つことができたのだろう。私達がついつい、経験から当然視してしまいがちなことも、諦め切るからこそ。

私は、良寛さんから「驚き方」を学んだように思う。色んなことを当たり前だと思い、そうしてくれることを当然だと思うようになったら、それが起きても当然視してしまい、驚けなくなってしまう。驚かず、当然視された側は面白くない。まるで召使のように扱われた気分で。

しかし良寛さんには、人々が寄せてくれる好意が奇跡のように思えて仕方なかったのだろう。自分の力ではいかんともしがたい、好意という他人の能動性が現れた奇跡。その奇跡に、まさに驚かずにいられなかったのだろう。感謝し、手を合わさずにいられなかったのだろう。

私は子どもの指導をする際、「期待」をすべて放棄する。こちらがこうしたのだから子どもはこうなるはず、とか、こういうふうに動くはず、という期待をすべて放棄する。期待を捨て、諦め切り、その上で子どもを虚心坦懐に観察し、仮説を立てて、いろいろ試してみる。すると、子どもから何らかの反応が。

私は、そうした反応が何であれ、子どもからそうした能動性が登場してきたのが嬉しくて、面白がる。すると子どもは安心するのか、ますます能動的になる。その能動性の発生に私が驚くと、ますます子どもは能動的になる。どうやら、そういう仕組みが人間にはあるらしい。

子どもは宿題をするのが当たり前だと期待してしまうと、「まだ宿題してないの?」という言葉が出てきやすくなる。別に宿題なんかしなくて構わない、と期待を完全に持たないでいると、「え?何も言わないのに宿題終わらせちゃったの?」と、素直な驚きの声が出てくる。

子育てでは、親が先回りしがち。宿題はやったか、勉強はまだか、と子どもより先回り。先回りされた子どもは、親の手のひらの中で動かされている感じで面白くない。宿題しても勉強しても親にやらされている感があって面白くない。

私は「後回り」するようにしている。宿題をすることとか勉強することとか、諦め切っている。すると、子どもが自ら宿題したり、学習を始めたりすると「え?なんで?」と驚くことになる。すると子どもは、自分が能動的に動くことで大人を驚かせた、と嬉しくなるのか、ますます能動的になるらしい。

良寛さんは子どもたちから慕われ、庶民の人たちからも敬愛されていたという。決して期待しないからこそ、諦め切っているからこそ、他人の優しさに驚き、感謝せずにいられない。そんな様子の良寛さんを見て、ますます優しくして上げたくなったのではないか、と思う。

これは面白い構造。期待すると他人の好意や能動性など、期待したことは発生しづらくなる。しかし期待を一切放棄し、諦め切ると、好意や能動性が発生する奇跡に驚かざるを得なくなる。驚くからこそ、好意や能動性がさらに引き出され、好循環が生まれてくる。

期待を捨てるからこそ、諦め切るからこそ、仏心は生まれる。人への優しさ、という能動性は生まれる。この人のために何かやって上げたい、という能動性が。仏教は、人の心に仏心を期待することを諦め切ることで、仏心が生まれる確率を上げるということを発見した、逆説的な学問なのかもしれない。

こうした逆説的な構造を、私は子育てでも感じている。子どもにあれこれと期待すると、子どもからは能動性が失われる。その期待の網から脱出するための能動性だけが発動する(親の嫌がるゲームや漫画に逃避する)ことになりやすい。

でも、子どもがどんなことに能動性を持つかを、親は一切期待できないと諦め切ると、能動性の発生に驚くことになる。やはりどんなことに能動性を示すかはコントロールできないけど、能動性が発生する確率が高まる。それは、その能動性がどんなものであれ、その発生の奇跡に親が驚くからだろう。

もともと、人間は能動的な生き物だ。赤ちゃんは頼みもしないのに立とうとし、話そうとする。それに親は驚かされるばかり。赤ちゃんのときに接していた、その接し方を、大きくなっても続けていけばよいのだと思う。すると、子どもは勝手に能動的に学んでいく。貪欲に、楽しみながら。

諦め切る。だから、子どもの能動性の発生に驚けるようになる。驚くから、それが面白くて子どもはますます能動的になり、積極的に学ぶようになる。期待しないからこそそれが起きる。なんとも逆説的だが、人間の心というのはどうやらそんなふうにできているらしい。

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