左リはお利口さんをやめて、ボケよう

ここ二十年ほど、日本でいわゆる左翼、リベラル(左リ)に人気がない原因の一つは、「清廉潔白、完璧な人物でなければならない」という「呪い」に囚われているからだと思う。
左リにはとても真面目な方が多く、貧困問題にも真剣に取り組む方が多いから好感は持つものの、「人間臭さがない」のが弱点。

ああであらねばならぬ、こうあるべきである、という「ねば」論、「べき」論が飛び交いがちなのも窮屈。「ねば」「べき」で縛りつけたら、自分もそれに縛られる。自縄自縛。そのために融通が利かなくなる。融通が利かないから現実対処能力に欠け、理想論だけ口にするということに陥りやすい。

左リの人たちはもっと欠点だらけの自分を許し、それを笑い、楽しみ、そして他者の欠点も「あんた、オモロイやっちゃな」という感じで包摂するユルさがあればよいのに、と思う。
左リの人たちは、「しぶとさ」に欠ける。批判されたらそれに誠実に応えねばならぬ、という「呪い」にかかってるから。

何か不祥事が見つかっただけで腰砕けになる。それが些細で、人間ならその程度の欠点はあるもんだろ、という程度のイメージダウンでも、「清廉潔白、完璧な人物」を演じがちだからものすごくダメージを受ける。もろい。もろすぎる。「敵」からしたらこんなに扱いやすく崩しやすい獲物もない。

時折、私のことを左リと見て攻撃してくる人がいる。その常套手段は「あなたは理想論を述べてばかりの清廉潔白、完璧な人間なんだろ?だったら今の発言は矛盾している、お前はウソつきだ」と責めてくるもの。左リの人は通常、イメージを保とうと必死になって弁明する。
他方私は。

「知るかいな、私は変人や。完璧な人間?私のツイート見てたら欠点だらけなのワカランのかいな。清廉潔白?いや、お金もほしいし、サボりたいし、いろいろめんどくさいと思ってますけど?私に完璧な人間像当てはめようという不思議な持っていき方がケッタイでしゃあないけど?」という姿勢。

左リの人たちは、もっとデコボコの人格であることを前面に出したほうがしぶとくなると思う。完璧な人間のフリをするからもろくなる。攻撃し倒しやすくなる。その脆さゆえに、社会をよくしようという志が実現しない原因を作っているように感じる。

「べき」論、「ねば」論でなくても、「なあ、こうしたほうが楽しいん違います?一緒にそっちのほうへ試してみましょうや!」くらいのノリでよいように思う。そうした軽さ、ノリのよさが左リには見られない。硬い!ダイヤモンドかと思うくらい硬い!あ、そう言えばダイヤは硬いけどもろいらしい。

左リには「笑い」がない。本来、みんなの幸せを願う人たちであるはずなのに、笑顔を大切にと言ってるのに、どうしたら笑いが生まれるかの研究がどうもこの陣営ではなされていない。他方、右の方はお笑いを引き込んでる。ただし「嗤い」要素が強いというドギツさがどうも。

左リの人たちが実践しやすい笑いは「ボケ」のほうかもしれない。ツッコミはどうも攻撃性があり、場合によっては人を蔑む「嗤い」につながりやすい。でも自分でボケるなら、誰も傷つけずに済む可能性が高くなる。

ボケの効用は、人をクスリと笑わせる力があるだけでなく、完璧な人間であるフリをしなくて済むという利点もある。肩ひじ張る無理をしなくてよくなる。左リの人たちに欠けがちな「人間臭さ」を帯びることが可能になる。

周恩来は中国で非常に敬愛された政治家。清廉潔白、国民の幸せを思う気持ちが強く、アクの強い権力者達と粘り強く交渉するタフさも併せ持ち、それでいて殺されずに済んだ稀有な人物。服は常に質素で、継ぎをあてて着ていたという。そんな周恩来だが、一つ人間臭さがあった。

「これだけはごめんなさい、許して下さい」と言っていたのが、お酒。お酒が大好きで、これだけは勘弁して下さい、と言って、飲んでいたという。このように、自分の欠点を隠さず、でも笑いでくるむ人間臭さが、魅力の一つにもなっていた。

左リの人は、各人何か一つ、「私はどうにもこれだけはやめられなくて」という欠点を示すようにしたほうが面白いと思う。そうしたほうが人間臭くて、親しみが持てる。清廉潔白完璧な人間のフリは、漂白剤の塩素臭がある。近づきがたい。

「これだけは私、よう改められませんねん。スマンこってす」と、自分を笑える力。それが左リの人に必要な力だと思う。「24時間365日誠心誠意頑張ります!」みたいなスーパーマンみたいなフリは、もうみんな無理があると見透かしてる。見透かされてるのにまだ続けてるのが「イタい」。

ではなぜ、左リの人たちはこんなに塩素臭のするスタイルを維持し続けてきたのだろう?一つは、「優等生、よい子」であった人が多いからかな、と思う。どちらかというと人間関係が苦手で、不器用で、でも勉強はできて、それでほめてもらえてきた優等生、よい子が多い気がする。

優等生でマジメ、でも不器用。こうした人たちは、不器用であるためか、笑いのセンスがイマイチなことが多い。で、育ってくる過程で、「大人にほめられる可能性の高い言動」をとることを学習していたのではないか、という気がする。そうして居場所を確保してきたのかも。

本来、左リは「庶民の味方」を標榜しているはずなのに庶民ウケせず、ちょっと知的な人にしかウケなくなってきた理由は、この「お利口さん」臭がエリート臭に感じられて、嫌がられている面があるような気がする。「庶民に寄り添おうとしているエリート」という矛盾めいた感じで、偽善者感が出てしまう。

言葉も「ですます」調でマジメ。その点も「お利口さん」感があり、庶民の現場から遠い存在に感じさせる原因となっているように思う。左リの人はもっと方言を使って、あまりマジメぶらずに、でも「いやー、なんか誰かが泣いてるのって、嫌ですやん?」という、感情をモロに出したほうがよいと思う。

左リの人は「理知的なフリをしなきゃならない」という「呪い」にもかかってる気がする。理知的なフリをしようとするには、感情に溺れず、理路整然と話さねばならぬ、という「思い込み」も持ち合わせてる気がする。私は、もっと「情」で揺れるところを見せたほうが親しめると思う。

元日に能登半島で地震が起きたとき、NHKのアナウンサーが鬼気迫る声で「今すぐ逃げてください!」と連呼したことが、高い評価を得た。かつてNHKは、アナウンサーたるもの、理知的で冷静に話さねばならぬ、という「呪い」に囚われてきた。しかし。

人間は論理の生き物ではなく、心理(心のことわり)で動く生き物。言葉が持つ意味、概念以上に、それを口にするときの口調、感情で多く揺さぶられる生き物。言葉が持つ概念以上に、感情がもたらす情報は膨大。NHKアナウンサーは、声色で事態の深刻さを伝えることに成功した。

しかしどうも左リの人たちの言葉は理知的過ぎて、心に響かないことが多い。使い古されたフレーズで組み立てられた、立板に水の言葉が連なるけど、心に響かない。やろうとしてることは立派でも、あまりに理知的だから「現場ホンマに知ってるんかいな」と疑ってしまうほど。

現場に身を置き、その惨状に心が奪われたなら、「ええい!伝えたいのに言葉が見つからん!」というもどかしさがあるはず。そのもどかしさをそのまま見せればよい。そこで変に理知的に、使い古された言葉を使用することで感情を削ぎ落とすから「ホンマに見てきたんかいな」と感じさせてしまう。

左リの人はもっと、言葉がヘタになったほうがいい。この悲しさ、苦しさをあなたに伝える術が私には見つからない、といった様子で悶えてる姿を見せるほうがよい。不思議なことに、そのほうが伝わるから。左リの人は言葉巧み過ぎてかえって伝わらん。

日本はこのところ、右が強かった。欠点をそのままさらけ出し(ある意味露悪趣味くらいだったが)、笑いまで味方につける(「嗤い」要素が強めだったが)ことで、庶民ウケすることに成功した。左リの人たちは、自分たちの塩素臭いエリート臭が原因であることにイマイチ気づいていない様子。

塩素は殺菌力強すぎる!庶民を包容したいなら、殺菌してどないすんねん!もっと人間臭くなれ!人間臭くならんかったら人を包摂することなんかできるかいな!本気で人を幸せにしたいなら、本気でボケろ!弱点をさらけ出せ!ボケて笑いをとれ!以上!

追伸
今の日本の右は「イジメて嗤うのも人間臭さの一つ」と開き直る、やさしさの欠如が起こりがちなのが気に食わん。
左リはお利口さん過ぎてマジメ過ぎてエリート過ぎて、そのために本当にやさしさを求めてる人たちから煙たがられてるその実行力のなさが気に食わん。

欠点ある人間をも包摂するやさしさを持ち、人間臭さ、弱点をさらけ出す強さもあわせ持ち、やむにやまれぬ気持ちを隠そうともせず、人を嗤わず、人を気持ちよく笑わせる力が実現可能なのだということを示してくれる、そんなイノベーションが日本で起きることを祈る。

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