「単純さ」に驚く昔の世代、「複雑さ」に驚く現代の世代

「化学と生物」という学会が発行している雑誌があるのだけど、昔、これに掲載されている文章が面白かった。戦争が終わる前に成人に達していたような世代の研究者だけど、化学の実験で色が変化したりしたのを見て、科学にすっかり魅了されたという。そのエピソードを見て、逆に私は感心した。

私は、学校で行われる化学の実験にあまり興味が持てなかった。いや、実験そのものは非日常なので多少楽しいのだけれど、その結果をプリントにまとめるのが面倒くさくて仕方なかった。「いや、教科書に書いてる現象やん、分かってることばっかりやん」と。それがつまらなさ過ぎて、実験もあまり好きではなかった。

研究者になり、世界の誰も知らない現象に出会える実験が楽しくて仕方なくなった。「そうか、実験が嫌いなんじゃなくて、すでに分かっていることをなぞるだけなのがつまらなくて仕方なかったのか」と気がついた。しかし年配の研究者は、分かり切ったそうした実験でも感動したという。この違いは何?

それは恐らく、体験量のちがいなのではないか、と思う。その記事によると、薪を拾い、お風呂は薪を燃やしてたき、ご飯も薪で、水は井戸から汲んできて、農作業も当然ながら手伝って、縄も自分でなって、と、ありとあらゆる体験を積んできたという。膨大だが、雑然とした体験を積んでこられた。

そうした膨大な体験を積んで、世界は雑然としていると考えていたら、化学の実験で、酸性やアルカリ性、酸素がないと燃焼しないという驚愕の事実、そうした科学の諸法則が、雑然として見えるこの世界を貫いているということに気づいたことの衝撃が、膨大な体験をしているからこそ強かったらしい。

その世代と比べたら、私の体験ははるかに乏しい。まあ、薪は登山のたびに拾って集め、火おこしも何度もしてきたし、水は湧き水の場所からキャンプ地まで運ぶ体験もしているけれど、恐らくはその世代の体験量から比べればはるかに貧弱だと言わざるを得ないだろう。しかも。

良くも悪くも情報に満ち溢れ、図鑑やテレビなどで化学、科学の知識に早くに触れてしまっていて、「それはそうでしょう」と、感動を感じずに育ってしまった。酸性やアルカリ性でリトマス試験紙の色が変わるのも「知ってるよ、そうだろうねえ」、酸素がないと火が消えるのも「知ってるよ」。感動が薄い。

ある知識と出会ったときに感動できるかどうかは、まだその知識に出会う前に、膨大な体験から「不思議だな」と思うことがたくさん積み重なっているかどうかが大きい気がする。体験が貧弱なのに知識が先行して身についてしまうと、感動が薄れ、その分、知識も浅薄になってしまう気がする。

まだ愛知県に住んでいた時、私立中学へ市民講師に行った。「花びらでリトマス試験紙を作ろう」というテーマで実験することに。すると、さすが医者や弁護士などの親をもつ子どもたち、お勉強ができるのか、授業前に「僕知っているよ、アントシアニンって言うんでしょ、紫キャベツが有名」と言った。

私は内心「うわー、つまんねー」と思いつつ、「君、よく知っているね。でもなんでそのアントなんちゃらってのは、酸性やアルカリ性で色が変わるんだろうね?」と質問すると、その子は考え込んでしまった。
そして、実験開始。私の目論見通りのことが起きた。

花びらをすりつぶして得られた液に酸やアルカリを加えるのだけれど、色が変わらないものが続出!色が変わる花もあったのだけれど、半分くらいの生徒が「色が変わらない!なんで?」と騒いだ。私は「なんでだろうねえ、色の変わるのと、何が違うんだろう?」と問いかけだけして答えなかった。

次に、ろ紙の一か所に花のしぼり汁を付け、下端を焼酎に浸けた。焼酎が染みあがると、しぼり汁の色素も上に移動する。ペーパークロマトグラフィーというやつだ。それをしてみると、一色と思っていた花の色素が、複数の色素の組み合わせであったりすることがわかる。

「先生、こんなんやってみた」と声をかけてくれた生徒が。油性マジックで試したところ、黒だと思っていたその色素は、複数の色で構成されていることがみてとれた。「わー!それ、よく試してみようと思ったね!黒はいくつもの色でできているんだね!ねえ、みんな見て見て!」と私はみんなに声をかけた。

授業の最後に、アントシアニンの知識を披露した生徒が近づいてきて「研究者って、お金稼げますか?」と聞かれた。「なんで?」と聞くと、「弁護士か医者になることを期待されていて・・・」と答えてくれた。どうやら、研究者も面白そうだと思ってくれたらしい。

昔の人は、膨大な体験を積んでいたからこそ、この世界の複雑さを痛感していたからこそ、この複雑怪奇な世界を単純な法則が貫いているということ自体が「大発見」だったのだろう。でも、火おこしも煮炊きもろくにやったことがない世代では、実験は本の知識の再確認でしかない。つまらない。

スイッチを押せばガスの火がつき、IHだったら火も出ずに加熱し、電子レンジはチンするだけ。世界はとても単純化されている若い世代にとって、世界は複雑怪奇でも何でもなく、よく知られた、言い換えれば陳腐化した科学の法則で貫かれているのは当然すぎてつまらなくなっている。

そんな若い世代にとって魅力があるのは、「未知」なのではないか、と考えている。私はわざと、紫キャベツや紫タマネギのような、酸やアルカリで確実に色が変わるものを持って来い、とは指定しなかった。色のある花びらのを持って来い、とだけ伝えた。その結果、どうなるかわからなくなった。

恐らく、最初に「僕知ってる、アントシアニンっていうんだよ」と言った子は、学問とは知識の量を問うだけのものだったのかもしれない。しかし、知っている知識の外に未知があり、まだ誰も明らかにできていないものがあることに、気がついてくれたのかもしれない。

いまさら、不便極まりない時代に戻りたいと考える人は少なかろう。多少の体験をできたところで、世界を複雑怪奇に感じることができるほどの膨大な体験を今の子どもたちに施すことは難しい。本の内容の単純さに感動するというところに持っていくのは難しかろう。

ならば、「未知」がこの世界にはたくさんあることに気づいてもらうことが大切なのではないだろうか。なぜ酸やアルカリで色が変わる色素と、そうでない色素があるのか?なぜそうした違いが現れるのか?何のためにその違いが存在するのか?目の前の花一つとっても、不思議な未知であふれ返っている。

私たち現代人は、生活があまりに単純化し過ぎて、世界を単純だと勘違いしている面がある。私たち若い世代は、昔の世代とは逆に「世界ってこんなに複雑怪奇なんだ」とうい方向で驚くようにできているように思う。その複雑怪奇さが面白くてたまらない。

昔の世代の研究者が、世界の複雑さを痛感するがゆえに科学の法則の単純さに驚いたのとは逆に、若い世代は、この世界を単純だと考えるがゆえに、世界は実は複雑怪奇なのだということを痛感することの方が、感動するように思う。そうした世代間ギャップは、意識しておく方がよいだろう。

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