なぜ知識囚人になってしまうのか

知識が増えれば増えるほど思考も言動も硬直的、頑迷になる人を知識囚人、逆に思考も言動もますます柔軟になる人を知識自由人と呼び、それぞれの特徴を前に挙げた。
https://note.com/shinshinohara/n/nf5d25925b269
それにしても、知識自由人と囚人の違いはなぜ生まれるのだろう?

YouMeさんとこの件を話してると、「知識囚人は不安なのではないか?」という話になった。知識囚人は、知識が豊富であることを示さないと、知識が正確無比であることを示さないと、自分の存在価値が失われてしまうかも、という不安を抱えているのでは、と。

確かに知識囚人は、知識の多さ、正確さを競う場面になるとムキになる傾向が強い。知識自由人はあっさり負けを認めることが多い。すると知識囚人は「勝った!」とほくそ笑むけど、余裕のなさを示すのは知識囚人、余裕を感じさせるのは知識自由人。

知識自由人は、知識への貪欲な欲求を持っているにも関わらず、そこに自分の価値を置いているわけではない。知識が増えれば自分の価値が上がるとも考えていない。というか、「自分の価値」という考え方をすでに持っていないのかもしれない。

知識自由人は、知識とか社会的地位とかお金とかといったものは外側の飾りでしかなく、内側とは何の関係もないことを知っている。また、「内側」に何を蓄積したとしても、他者との向き合い方がぞんざいであれば、他者との関係はすぐに悪くなることも承知している。

他者との関係性は、目の前の他者に自分がどうふるまい、どんな言動をとるのかで決まるのであって、自分の外側の知識とか学歴とか社会的地位とかお金なども関係ないし、自分の内側の蓄積とも関係ない、ということを悟っているように思う。だから知識自由人は、外側も内側も変に飾ろうとしないのかも。

良くも悪くも私は私。自分の長所や欠点を弁えて、なるべく相手に嫌な思いをさせないようにし、どうしても不快な思いをさせることが分かっている場合は謝って「これだけは許してください」と伝えておく。なるべく楽しい関係性になるように努める。これが知識自由人の状態なのかもしれない。

しかし知識囚人は、自分という存在を知識で飾り立てることが可能だと考えているのかもしれない。外側を知識の量で飾り立て、内側は知識の蓄積で重みをつけ、というように、他人に自分という存在がとても重要であることを、知識の量でもって認めさせよう、としているのかもしれない。

社会には幸か不幸か、「知識のあることはよいこと、知識をたくさん持っている人は尊敬すべき」という常識が存在していることを、知識囚人は知っている。この常識を利用して、知識を蓄え、自分は尊敬すべき存在であり、そのように扱うべきである、とアピールしたいのでは。

しかし、他者から尊敬を受けるかどうかは、実は関係性で決まる。知識を誇り、知識がないとみなしたものに「もっと勉強しなさい」と上から発言を繰り返し、他者に嫌な思いをさせる人は、「社会常識からは尊敬すべき人なんだろうけど、私はこの人と関係を結ぶのが嫌だ」になってしまう。

一対一での関係性だと、知識囚人は上から目線の対し方をしがちで、嫌われやすい。そして自分が嫌われがちであることも感づいている。けれどどうしたらよいのかがわからなくて、「知識人は敬うべき」という社会常識を盾に取って人間関係を構築するよりすべを知らないのかもしれない。

これは、やはり子どもの頃にどんな大人に囲まれたかということと関係するかもしれない。自分の知識を誇り、知識のない者を見下す大人に育てられた場合、「知識がなければ生きている値打ちがないとみなされるかも」と、不安を抱えて生きていくことになりかねない。

知識自由人は、自分の素をそのままさらけ出したとしても、自分の欠点を自覚しており、少なくとも他人に不快な思いをさせないように気を付け、どうしてもダメな時は謝り、それ以外の時間をなるべく他者と楽しく過ごせるよう心掛ける。だから、良好な関係を築きやすい。

知識自由人は、知識のあることが欠点を見過ごしてもらう免罪符にはならないことを承知している。欠点は欠点。だから素直に謝り、許してもらう。その代わり、なるべく楽しい関係になるように心がける。だから周囲から愛されやすいのかもしれない。知識を愛しつつも、知識からさえ自由となる考え方。

しかし知識囚人は、自分の性格の欠点を知識の量でごまかそうとしがち。つまり、知識さえあれば少々の欠点は免罪符になる、と考えているのかも。いや、免罪符として認めろ!と他者に要求しているというか、押しつけている感がある。それが頑なな態度として表れているのかも。

「赤心を推して腹中に置く」という言葉がある。知識自由人は、人との関係性を形成するには、赤ちゃんが親に対して全幅の信頼を寄せるように、心を丸裸にして相手の腹の中に放り込むような気持で対したら大概うまくいく、ということを知っている。そこに変に知識を持ち込まないほうがいいことも。

でも、知識囚人は知識という武器を手放せない。これを手放したらナメられるんじゃないか、バカにされるんじゃないかと身構えてしまう。その身構えた緊張が相手に伝わり、相手も心を開かなくなってしまうのに。「赤心を推して腹中に置く」が、知識囚人はできなくて困っているのだと思う。

赤ちゃんが親に示すように相手に信頼を示すこと、丸裸の自分を示して相手に委ねること、自分の欠点を認め、それを笑える余裕を持つこと、その上で相手に不快な思いをさせない配慮をすれば、大概の相手は心開いてくれる。知識の量を競わなくても。そのことを知識自由人は知っている。

でも、知識囚人はそれができない。不安で仕方ないのだろう。だから知識という武器で身を固め、知識という飾りで外側をきらびやかにし、知識に対しては敬意を示すべきという世間の常識に頼り、その約束事の上でしか人間関係を築けない。そうした不安を抱えているから、知識囚人になるのかも。

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