「プロセスをほめる」という呪い、驚き驚かされの楽しみ

結果でなくプロセスをほめるように、というのは、最近よく言われている。確かにプロセスをほめるのはうまくいくことが多い、ように思える。ただ、「プロセスをほめる」も「呪い」になることがある。うまくいってるように見えるときこそ、呪いになりやすいのが厄介。

「しくじり先生」で尾木ママが登壇したときのこと。品行方正な自慢の娘だった。くだらないテレビ番組は見ない、駄菓子は嫌がって食べない。真面目で努力家。
ところがある日、娘の部屋を開けるとくだらないテレビ番組を見ながらチョコの駄菓子を散乱させ、笑い転げてる娘を発見。

娘さんは涙を流し、実はくだらないテレビ番組が大好きだし、駄菓子も大好きだったことを告白。「どうして隠してたの?」と聞くと、「だって、お父さんがそう望んでいたから」。
お父さんからほめられるのが嬉しくて、「真面目なよい子」を必死に演じ続けていたのだという。本心をひた隠しにして。

「家栽の人」に、明るく真面目で成績優秀、友達の面倒見もいいという絵に描いたような優等生が問題行動を起こすという回がある。褒められるのが嬉しく、褒められるために行動しているうちに、自分が本当には何をしたいのか分からなくなってしまった子供。

ほめられるのは嬉しくて、ほめられた通りに行動しようとする子ども・大人は一定数いる。その効果だけみれば、確かに「ほめる」は効果がある。けれど、ほめる場合は主導権が褒める側にある。相手の価値観の土俵の上で踊るしかない。だからほめられる形でしか行動できなくなってしまう。自分を見失う。

ほめられるために行動するのも、自分で選び取った行動なのだから自発的行動に見える。しかし他人の用意した土俵で踊るしかないという環境なので、やがて自分のやりたいことがわからなくなり、つらくなることがある。ほめるというのは、本人が自ら選び取るのを邪魔する面がある。

私が「ほめる」ではなく「驚く」を選ぶようになったのも、このため。「ほめる」は主導権がほめる側に移ってしまい、ほめられる側はそれに従うしかない。ほめられない行動をすることにおびえるようになるのは、支配されているからだと私は考えている。しかし「驚く」の場合は、主導権が驚かす側にある。

驚く側は、何に驚かされることになるのか、決定権はない。驚かす側にこそ、主導権がある。もちろん、驚く側にも、何を嬉しそうに驚き、何をイヤそうに驚くのか、という選択権はある。しかし、驚くことは、基本的に驚かす側の主導権を認めた、受動的な反応。

「ほめる」は、ほめられた側の能動性を引き出すことが難しい。ほめる側に主導権を奪われている以上、どうも構造的に、受動的な立場となる。いわゆる「よい子」は、ほめる側によって形作られた、お人形という格好になりかねない。

「驚く」は、驚かす側が何で驚かしてやろう、と企める分、主導権があるし、その分、能動的にもなれる。能動性を引き出すには、「驚く」の方が「ほめる」よりも適当なのではないか、と考えている。

中でも、工夫、発見、挑戦に驚くことは、驚かす側の能動性を引き出すのに、より適切だと感じている。工夫を凝らすことって、一人でやっていても結構楽しい。新たな発見をするのも楽しい。できなかったことに挑戦するのはやりがいがある。他人の目がなくても楽しめるのが、工夫、発見、挑戦。

一人でも楽しめるのだけれど、工夫、発見、挑戦の結果、まさに思わぬことが起きた場合、一緒に驚いてくれる人がいると最高。「ねえ、見て見て!」幼児が口癖のように口にするあの言葉、いくつになっても近くの人に見てもらい、一緒に驚きを共有してほしくなる。

驚くことは、工夫、発見、挑戦という能動性をさらに引き出す。また驚かせたくなるから。
私は、子どもだけでなく大人も、誰かひとり「驚く」役割を果たしたら、学ぶ意欲、働く意欲を非常に高めるものの世に思う。特に工夫、発見、挑戦に驚くことで。

私は、学習意欲をすっかり失ってしまった、学校では落第生とみなされてきた子どもの面倒を多く見てきた。若い頃の私は指導力がなく、必死ではあったがうまくいったりいかなかったり。うまくいったときもなぜうまくいったのかが分からない。その逆もわからない。その悔いがずっとあった。

あの時、子どもたちにどうやって接すればよかったのだろう?うまくいったときはどうしていたのだろう?逆にうまくいかなかったときは?そんなことをずっと考えてきた結果、どうやら、工夫、発見、挑戦に驚き、面白がると学習意欲が高まる、ということに気がついた。

「ほめる」の場合、ほめるに値することしかほめないことになりがち。ゲームで新しい技をマスターしても褒めないが、勉強机に向かうとほめる。このように、ほめる側に何でほめるのかについて、主導権がある。ゲームや漫画ではほめない。

私は、能動性を引き出せるなら、分野は問わなくてよいと考えている。それが工夫・発見・挑戦であり、昨日までできなかったことが今日できたなら、驚くようにしている。それがマンガであろうとゲームであろうと。すると、どんな分野でも工夫・発見・挑戦を続けようとする。驚かすのが楽しいから。

息子は幼いころ、「学」という字をみて、「あそぶ」と読んだ。なんで?と聞いたら、「まなぶことはたのしいから」と、両手、体をゆらゆら、踊っていた。小学四年生になった息子は、今も学ぶことと遊ぶことに境界線がない。遊んで学び、学んで遊んでいる。

息子にとっては、学ぶことも遊ぶことも、工夫・発見・挑戦の「場」としては同じだからだろう。私は、遊びの場面でも学ぶ場面でも、子どもの工夫・発見・挑戦に驚き、面白がる。すると、子どもたちにとっては、遊びも勉強も同じように工夫・発見・挑戦の場でしかなくなるらしい。

私は研究というのを仕事にしていて、しばらくして気がついたのは「これ、遊んでいるのと何が違うんだろう?」ということだった。もちろん、研究するにはたくさんの論文や本を読まなければならない。調べ物をし、実験をし。仕事としては大量のことをこなさなければならない。それでも。

工夫・発見・挑戦をする営みだからだろう。楽しい。ある研究者は「研究とは趣味である」と言ったが、私もその通りだと思う。研究と趣味に境界線がない。趣味も研究も、工夫・発見・挑戦を楽しむものだからだろう。そう、工夫・発見・挑戦を楽しんでいると、勝手に学ぶ。調べ物もいとわない。

だったら、しんどそうに刻苦勉励するより、面白そうに工夫・発見・挑戦を楽しんだらいいんじゃないか、というのが私の仮説。その仮説に基づき、子どもたちを育て、研究室を運営している。いまのところ、うまくいっているので、まあ、間違ってはいないのかな、と感じている。

工夫や発見、挑戦を自身が楽しむだけでなく、人(子供)がやっている工夫、発見、挑戦に驚き、面白がると、互いに「ねえ、見て見て!」と声を掛け合う、発見に次ぐ発見の楽しい日々になるのではないだろうか。驚き、驚かす関係は、対等で、しかも互いに学びを楽しめる。

「ほめる」という「呪い」を忘れて、たがいに驚き、驚かされを楽しむ世の中になったら、どうなのだろう。私はそんなことを夢想している。

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