「見えざる手」のデザイン

新自由主義の人たちは、アダム・スミスのいう「見えざる手(神の手)」に任せた方がよい、という点に疑いを持っていない。実は、新自由主義に批判的な私も、この点は同意している。私達は変に意図的な介入をするべきでなく、「見えざる手」に委ねた方がよい、という考えについては同意見。ただし。

新自由主義の人たちは「見えざる手」のデザインもすべきでない、という主張をする。なるべく人為的な介入は避けるべきで、「見えざる手」がどんなふうに働くかも自然任せにすべきだ、と。しかしそのくせ、富裕層に有利な「見えざる手」をデザインすることに熱心。この結果、富裕層に有利なシステムに。

私は、「見えざる手」をデザインしたあとは「見えざる手」任せにするのがよいと考えてはいるが、「見えざる手」はデザインして構わない、むしろデザインすべきというのが私の意見。それはどういうものかというと、サッカーみたいなものだと考えている。

サッカーは他のスポーツと違い、もっとも器用な器官である「手」を使っちゃいけないというルールを課している。そんな不便なルール、新自由主義の主張からすれば「そんな人為的なルールは許せない、手も使えるように規制緩和すべきだ、その方がそのスポーツは活性化する」ということになる。しかし。

「手を使えない」という不便なルールをむしろ面白がり、たくさんの人たちが足という、本来不器用な器官を駆使して新しい技を磨くことを楽しんでいる。サッカー愛好者は今や世界に広がり、この不便なルールにみんなが自ら従い、人口はますます増える勢い。

ルールは定めるものの、監督は試合が始まるといちいち口を出すことができない。選手に任せるしかない。「見えざる手」に任せる形。そうすることで選手はのびのびと、だけど勝利に向かってアクティブに動く。能動的に。。「手を使えない」という不便なルールを嬉々として守りながら。

そう。だから「見えざる手」をデザインすることはためらわなくてよい。「見えざる手」の中に十分な自由度があれば、人々はその構造の中で楽しみながら能動的に動く。サッカーを楽しむ人が手を使えないことに不満を漏らすことがないように。

ただし、ルール(法律)という名の「見えざる手」があまりにも細かく決められると、その中で窒息してしまう。秦の始皇帝は中国統一のあと、非常に細々とルールを定めすぎたため、ルールを守らきれない人間が続出し、あっという間に国家が転覆する原因を作った。

「見えざる手」はなるべくおおらかに作る必要がある。そのルールの中で様々な創意工夫が行える楽しみが味わえるように。けれど誰かを陥れたり、虐げたりすることがないように。サッカーでも暴力を許すような自由が許されていないように。

今の日本社会は、富裕層にやや有利なシステムとなっている。竹中平蔵氏が小泉政権で仕掛けた仕組みが日本全体に浸透し、「見えざる手」は富裕層に有利で、貧困層を大量生産する方向にデザインされてしまった。かえすがえすも残念なデザインだったと思う。

これからの日本は容易ならざる道を歩むことになる。しかし、そんな中でも極端に苦しむ人がないような「見えざる手」をデザインする必要がある。その構造の中で創意工夫を楽しめる自由度を確保する必要がある。ただし貧富の格差が極端に開かないデザインで。

「見えざる手」をおおらかにデザインし、十分な自由度を確保する限り、資本主義の形態は維持されるし、民主主義も守れる。富裕層はそれなりに儲けるが、貧困層はどんどん減らしていき、誰も生活に苦しまずに済ませる。そんな「見えざる手」のデザインを、私達は知恵を絞って考えていく必要がある。

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