嫌われるお説教、聞きたくなるお説教

Facebookはお説教の好きなおじさんが多いから若い人が避けるのだ、という話をすると、
・お説教の何が悪いのか、と開き直る
・お説教から逃げる若者は情けない
・お説教すれば嫌われる
・嫌われて結構、それでも平気
などのご意見を頂いた。いくつか興味深い点が感じられたので、考えてみたい。

まず、お説教は嫌われるもの、という点に違和感。私の父は無類のお説教好きだったのだが、若者がたくさんそのお説教を聞きに来ていた。午前中に来たと思ってたら、晩御飯の時間までいるということも。酒の飲める年齢になると、朝まで話し込むこともザラ。若者が進んでお説教を聞きに来ていた。

私も、学生と夜7時にファミレスに入って、夜中の3時まで話し込むということも多かった。途中、学生がトイレに立ち、「もういくらなんでも聞き飽きただろう」と思って帰り支度をしていたら、学生、ドリンクバーで新しい飲み物持ってきて「さあ続きを聞かせてもらいましょうか」となったり。

若者はお説教を嫌う、というのは、私はウソだと思う。若者は、ある種のお説教は大好物。
ただし、学生が私のお説教を嫌うようになったことがある。早く切り上げたそうな顔をして。その学生だけじゃなく、他の学生もお説教を嫌がるようになったので、これはどうやら、私に原因があるらしい。

過去に話してたことと、その時の自分の話に何の違いがあるのか考えてみたところ、嫌われる時は「自分の話したいこと」を話していた。他方、学生が身を乗り出して聞いていた時は、「学生が聞きたそうな話」をしていたことに気がついた。
そこで、もう一度意識して話してみたところ。

学生が身を乗り出して話を聞くようになった。私は「ああ、そうか」と思った。「お説教」している間、ほぼ私が一方的にしゃべっている。何時間も。では一方通行かというと、実は学生が聞きたがる時って、双方向だった。私が学生の反応から、「こうしたことに興味があるのだろうか?」と感じ取り。

そのあたりの話をする。すると学生が興味を持つ。よし、それならこういう話をすると学生にも参考になるかも、と、深堀りする。学生が興味なさそうならその話は早々に切り上げる。そんなふうに、学生から発信されるシグナルに合わせてお説教の内容を変えると、学生は身を乗り出して聞く。

でも、私が話したいことを一方的に話すと、学生は横を向き、早く帰る口実を探し出す。つまり、双方向的なお説教なら若い人も聞くけれど、一方的なお説教はキライになるらしい。そりゃそうか、とも思う。

若い人は、自分もそうだったわけだけど、恋愛や進路、仕事の話、先輩後輩の関係などに悩んでいる。あるいは親との確執とか。そういうところにアタリをつけ、「僕は若い頃、こういうことに悩んでいてね」と、自分が悩み、悶え苦しんだことを話すと大概身を乗り出して聞いてくる。

眼の前に、それをくぐり抜けた人がいるわけだから、自分の悩みもいつかくぐり抜けられるのかもしれない、そのヒントをもらえるかもしれないと感じ、聞きたくなるのだろう。自分の問題意識とズレていても、友人で悩んでるのもいたりするから、そのためにも聞いておこうとなったりする。

そうした、若者に関心の強い話題を取り上げたお説教なら、若い人は積極的に聞くように思う。若い人が聞こうとせず、嫌うお説教は、若い人が何に悩んでるなんか頓着せずに自分の話したいこと。話すものだからのように思う。

人間はどうやら、年をとっても「ねえ、見て見て!ボクすごいでしょ!」としたくなるものらしい。嫌われる説教は、自分の存在をすごいと思ってくれアピールのことが多い。トシをとっても幼児的欲求をそのままにぶつけるから、嫌われてしまうのかもしれない。

嫌われるお説教は、外目には「与える」行為に見えるけど、実は「吸い取る」行為なのかもしれない。スゴイですねという賞賛、驚嘆を、自分のためだけに吸い取ろうとする行為。一方的な収奪だから嫌われるのかもしれない。

聞きたくなるお説教は、何かしら若い人が現状を打開できるヒントになれば、と思って「相手の反応を見ながら」提供するものだから、聞く側も双方向性を感じやすいのかも。自分の悩みに共感してもらえた、という感覚も持てるから。

ところで、嫌われることがわかっていてもお説教してしまう人がいる。嫌われるよ、と伝えても「それで構わない」と開き直る。これはなぜ起きるのだろう?
マザー・テレサが興味深いことを指摘している。愛の逆の意味の言葉は何か?という問いに対し、多くの人は憎しみではないか、と考えてしまう。

けれど、マザー・テレサからすると、憎しみはまだ相手への関心が失われていないからマシなのだという。愛の反対の言葉は無関心。無視、無関心ほど人を傷つけるものはない、という。
この話から考えると、嫌われるお説教をする人の心理が見えてくるように思う。

無視されるくらいなら、無関心でいられるくらいなら、いっそ嫌われ、嫌がられる行為をして爪痕を残す方が、相手に自分の存在を刻印できてマシ、と考えてしまうのかもしれない。
自分は正義のために発言した孤高のヒーロー、という気分も味わえるから、自分を正当化しやすい。

秋葉原連続殺傷事件を起こした犯人は、自分を軽視し、無関心である世間に報復し、爪痕を遺そうとしたと言われている。無視、無関心でいられるよりは、何かしら憎まれても嫌われても、存在を認めざるを得ないように仕向けたい、という心理が働くのかもしれない。

秋葉原の事件は明らかに犯罪だが、お説教は正義の衣をまとうことが可能。もしかしたら似たような心理から発してる行為なのだけども、正義を実践しているのだからマシ、と、自分を正当化しやすいのかもしれない。でもやはり、迷惑なことも多い。

前に、電車の中でグズってる幼児を抱えてる親子に「うるさい!」と怒鳴り、「しつけがなってないからそんなことに」とお説教を始める年配者の話がツイッターで話題になっていた。さすがにそれは車内の人たちが間に入り、その妙な正義を振りかざすオジサンをたしなめたようだけど。

「正義なら人を攻撃して構わない」というのは、嫌われるお説教の好きな年配男性に多いリクツだと思う。正義を人質に取ってるから相手は言い返しにくいと考えて、感情の激するままにぶつけてしまう。でも、これは正義を取り違えているように思う。

正義は、みんなが楽しく暮らしていけるようにするためのツールでしかない。人を不幸にする時点で正議の資格は失われている。自分の腹いせに利用する正義は、すでに正義の資格を失っているように思う。

お説教を、せっかくなら聞いていて楽しいものにしてほしいと思う。変に自分を立派な人間だとして描こうと無理をせずに、むしろ自分も若い頃に悩み苦しんだ、等身大の人間として、若い人にヒントになれば、と話せば、若い人の参考になるし、聞こうとするように思う。

ある一定以上の年配男性は、マウント気味の偉そうな態度でしか話す方法を知らないものだから、面白いお説教を話すのがうまくいかないだけだと思う。自分の情けない話をすることのできる人のほうが、よほど凄みを感じられる。トシを取ればとるほど、そうした研鑽に努めたいなあ、と思う。

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