存在を変えようとするのではなく、硬直した関係性に変化をもたらす

関係性から考えるものの見方(社会構成主義)、たぶん第15弾。
私は小学5年生の頃、担任の先生と折り合いが悪かった。協調性のない私が許せなかったようで、とうとう私を罵るようになってしまった。そんな変化を父が察し、学校の面談に初めて父が参加した。

面談で担任の先生は、協調性のない私の問題行動を列挙した。父はそれに一つ一つうなづいたあと、こう言ったという。「先生、それは息子の長所です。息子の長所を潰さないでください」。
先生は最初、何を言われてるかわからなかったらしく、キョトン。父は言葉を続けた。

「世の中の10人に1人は、孤独な仕事をしています。ビルやダムの監視員は、夜中にたった一人で仕事をしています。そうした人がいるから社会は成り立っています。全員に協調性を求めて、孤独を嫌がるようになったら誰がそうした仕事をしてくれるでしょうか。孤独に強いのは息子の長所です」

協調性がないのは悪いこと、社会でやってけないと思い込んでいた先生にとって、父の話は目からウロコだったらしい。
扱いに困っていた他の子どものことも父に相談し始めた。父は、先生が短所と考えていたものを全て長所に読み替えて説明したので、先生は驚いた。面談は予定を超えて一時間に及んだ。

その次の日から、先生の私への姿勢が変わった。それまでは私の協調性のない言動にイライラし、罵っていたけれど、私が何を考えてそんな行動をとるのかよく観察し、どんな言葉をかけたら動くのかを考えるようになった。そんな先生からの声かけは私も素直に聞くことができ、協調性がなかったはずの私が。

クラスの他の子達と協調して行動できるようになった。
マラソン大会で先生が母を見かけたとき、こう言ったという。「篠原くんのお父さんは、心を2つも3つも持った方ですね!」
私はすっかりクラスのみんなに馴染めるようになった。6年生になり、引っ越すことになったとき、先生は心底悔しがった。

「ようやく篠原くんのことがわかってきたのに」
なぜ先生は変わったのだろう?そしてなぜ私の行動は変わったのだろう?
先生は私のことを協調性がないと決めつけ、その目で見ていた。協調性のない行動を見つけたらそれを𠮟りつけ、矯正しようとしたのだろう。他方、子どもの私は。

先生から疑いの目を向けられ、特定の行動をとるよう強く期待されていることに反発を覚えていたのだろう。
しかし父から「協調性がないのは息子の長所」と、思いがけない視点を得たことで、私を見る目が変わり、「協調性がないなりにやってける方法は?」と、思考の枠がシフトしたのだろう。

先生が私に無理をさせようとしなくなり、私でもできそうなアプローチは何かを考えてくれるようになったのを感じて、私も素直になれたのだろう。関係性が変わったことで、私の反発は和らぎ、みんなと一緒にいることを楽しめるようになった。

それと似た経験が。
私が面倒を見ていた子どもが、泣いていた。親御さんによると、花瓶を割って先生に叱られたという。でも子どもは僕じゃない、という。「お前はそそっかしいから知らぬ間に割ったんだろう」どうやら先生からもそそっかしいと思われ、目をつけられ、不信感を持たれてるらしい。

私は親御さんに、先生と面談できるよう連絡してほしいと頼んだ。
夕方に行くと、担任の先生だけでなく教頭先生も同席。親でもなんでもない人間が何を怒鳴り込みにきたのかと緊張していたらしい。私は「今度、あの子の面倒を見ることになって。学校の様子を聞かせてほしいだけです」と伝えた。

私が学校での様子、あるいは学校そのものの様子を興味深く聞いてると、教頭先生は安心したのか、席を外した。しばらく担任の先生から話を聞き、最後にこう伝えた。「今日はありがとうございます。よくわかりました。これから私があの子の面倒を見ます。あの子は必ず変わります。よろしくお願いします」

数日して、その子から嬉しくて仕方ないといった様子で、報告があった。担任の先生からほめられたのだという。その先生からほめられたのは初めてだと言って、喜んでいた。それがきっかけで家族からもしばらくして信頼を得るようになっていった。

その子は私がアプローチするまで、家族からも学校からも信頼されなくなっていた。確かにADHDの傾向が顕著でそそっかしく、いつ何をしでかすかわからない人間として認知されていた。そのために、本人の言うことも信頼されなくなってしまっていた。

私がわざわざ、親戚でもない赤の他人が学校まで出向くという、まず起こり得ないことが起こったことで、そして「この子は変わります」とうけあったことで、先生は「この子がどう変化するというのだろう?」と気になるようになったのだろう。それまでは「どんな悪事をしでかすか」としか見なかったのに。

「どんなよい変化がこの子に訪れるのだろう?」という気持ちで見つめることで、よい変化を見つけやすくなったのだろう。悪いところを探す関係性から、よい変化を探す関係性に変化したことが、実際にその子によい変化をもたらすようになったのだろう。

私達は、「この子はこういう子だ」と存在を決めつけ、そのために関係性が一本調子になってしまい、同じ反応、行動を引き出してしまう状態に陥りやすい。しかしほんの少し視点が、というより視座が変わったとき、「あれ?この子にこんな一面が?」と、新たな発見をすることになる。

自分を見る目が変化したことに、子どもは敏感に反応する。すると、子どもの行動が変化する。関係性が変わると、子どもの行動は大きく変化していく。とはいっても長年の蓄積があるから、最初は恐る恐る。でも、好循環が起きてると察すると、子どもの変化は早い。大きく変容する。

先生と生徒、あるいは両親と子どもの関係性が一本調子になって硬直しているとき、第3の人間が思い切って踏み込み、それぞれがもつ思い込み、思考の枠(思枠)にヒビを入れると、途端に関係性が変わりだし、子どもが大きく変化していく。

存在を変えようとしなくていい。関係性に変化をもたらすこと。関係性に変化を与えるには、その関係性の由来となってる思枠に変化を加えること。すると、存在を変えようとしなくても関係性が変化し、結果として子どもが変化していく。

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関係性から考えるものの見方(社会構成主義)の本、ケネス・ガーゲン「関係の世界へ」の帯を書かせて頂きました。

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