子育ては「汝自身を知る」こと

横山光輝「三国志」では、「自分のことは自分が一番わかる」という発言をする人物が結構現れる。私は「いやいや、そんなことあるまいよ、自分のことってビックリするくらい分かっていないよ」と一人で突っ込んでいた。実際、私たちは自分のことが思いのほか分かっていない。それが子育てにも反映する。

今回バズったツイートは、「親が先回りすると子どもはやる気を失う」というもの。これ、みなさん、よく自覚されていること。実際、そういう反応が大変多い。自分が親に、あるいは指導者に先回りされた時、面白くなくなり、やる気を失った経験が一度や二度はある。よく分かっている、はず。

なのにいざ自分が指導者になった場合、ついつい先回りしてしまう。「ああ!そこをそうやったらこうなってしまうよ!こうだよ、こう!」と、未来の失敗が見えてしまうから、アドバイスして回避させてやろうとする。親切で。心配だから。相手のためを思って。そして子どものやる気を奪う。

ソクラテスは「本当に知っているなら実践できるはず」と言ったという。実践できないとすれば、私たちは知っているようで知らないのだろう。なにか、分からないまま放置していることがあるに違いない。自分が先回りされるとやる気失うのは分かっているのに、どうして自分も先回りしてしまうのだろう?

人間って、他人がモタモタしてうまくいかないのを見ると「ちょっと貸してみろ、それはこうしたらいいんじゃないか」と手を出し、口を出し、教えたくなる本能があるらしい。子どもなんかも、誰かがモタモタしていると「ちょっとやらせてみて」と、それを奪う様子がよく観察される。どうやら本能。

将棋の言葉で「岡目八目」というのがある。実際に試合している人間はかえって試合の流れがわからないんだけど、横で見ている人には、勝負の流れがよく分かるし、どうしたらよいのかも見えるという現象がある。そしてそれがあると、口を出し、教えたくなる本能が人間にはあるらしい。

一方で、人間は自分でやり遂げたい、という本能もあるらしい。たとえば日曜大工の講座でイスを作ることなったとして、講師が「ここはこう直したほうがいいね」と、仕上げの部分を全部やってしまったとしたら。そのイスは愛着がわくどころか、憎たらしくなるだろう。そして講師の腕にケチつけたくなる。

でももし、イスを最初から最後まで自分の手で作り上げたとしたら、どれだけクギがゆがんでいても、少々傾いでいても、ガタついたとしても、愛着のわく一品になるだろう。他人の力で完成させられると「汚された」感覚になるが、自分一人でやり遂げれば、達成感と愛着がわく。そして。

この次はもっと上手に作ってやろう、と企む。自分でやり遂げた、という感覚は、次の意欲を生む。しかし他人の力で助けられた(汚された)という思いがあると、一気に気持ちが冷め、「別の分野のことをやろう」と思うようになる。人間にはどうやら、こうした本能が備わっているらしい。

ならば、なるべく他人の力を借りずに、自分の力で成し遂げた、という感覚を持ってもらうことが、子どもにしろ部下にしろ、指導する際に重要な気がする。もしそうした達成感を味わえれば、むしろ指導者は「少しは休めよ」と手綱を引き締めなければならないほど、やる気に満ちる。

私は時々、娘(小二)に、「宿題、お父さんに残しといてくれよ。お父さん、やったげるから。ちょっと字が汚くて、間違うかもしれんけど」と声をかける。娘は「いやー!自分でやる!」とムキになる。私は「いやいや、いいからいいから。お父さんに少しでいいから残しといて」と頼む。

新聞を読んでいると娘が「もう宿題、やっちゃったよ~!」と私を悔しがらせようとする。私は驚いて、「えー!残しといて、って言ったやん!ひどい!」とか言うと、娘はしてやったりと嬉しそう。宿題は、私を驚かすための道具として楽しんでいる様子。

宿題をやり遂げるとお父さんが驚く、悔しがる、というゲームになるよう、環境や声掛けをデザインする。すると、宿題はゲームで言うなら、大ボスをやっつけるための武器になる。お父さんの悔しがる顔を思い浮かべながら、楽しんで宿題を終わらせることになる。

「宿題をやりなさい!」と親から言われて宿題をする場合、子どもはどう感じるか。親に言われないと宿題をしようとしないダメな子、親は宿題をやるように監督する立派な人間、という構図になっていることを、子どもは敏感に察する。しかも宿題を終えても、親は「私が言ったからこの子はやり遂げた」感。

宿題をやり遂げたのは自分なのに、宿題をやり遂げた功績は親に奪われてしまう。これでは面白くない。親にいいようにコントロールされて、自分がない感じ。親に言われなきゃ動けないダメな子、という自己イメージを植え付けられて、面白くない。これでは子どもも、やる気を失ってしまう。

でも、宿題が、誰かを驚かせたり、悔しがらせることができるゲームの一環になったとしたら。子どもは宿題を見事やり遂げ、お父さんというボスキャラをやっつけたという達成感も得られる。ゲームになる。

人間はいったいどんな本能を備えているのか。どんな状況で意欲が湧き、どんな状況だと意欲を失ってしまう生き物なのか。よく観察し、よく考え、布石する。すると、動かないと思っていた事態が動く。

「この子は・・・なのだ、だからダメなのだ」と、存在を決めつけ、上手くいかない子育ての理由に挙げたくなることがある。でも、人間って、関係性によっていくらでも変容してしまう生き物のように思う。それについては以前、こんな記事を書いたことがある。
https://note.com/shinshinohara/n/n1e9eb320703d

「こいつは働かない部下だ」と上司が決めつけていると、部下はその報復として「ええそうですよ、どうせ怠け者で能力も低いですよ、誰があんたのために働いてやるもんですか」と、働かない部下を徹底して演じるようになってしまう。ところが上司が変わると、ガラッと働き者に変わったりすることがある。

BMW東京の社長だった林文子氏は、全然働かない部下に対して「あなたはこんなものではないはず、だから悔しい、本当に悔しい」と声をかけたという。すると、成績最悪だった事業所が、一番の成績を上げるようになったという。

「あなたはこんなものではないはず」という言葉に何の根拠もない。なにせ、その社員はずっと働きが悪かったのだから。でも、林氏がその社員の潜在力を信じる言葉をかけ、あなたは変われるはずだ、という言葉をかけ続けた結果、社員は「自分の中にも何かがあるのだろうか?」という気がしてくるらしい。

そして、少し行動が変容する。すると、林氏はその変化に驚く。すると、さらに行動を変容させてみようという勇気が湧いてくる。やがて、本当に変わってしまう。林氏が用意した関係性の構造が、社員の「存在」を変えてしまったのだろう。

まんが「家栽の人」の主人公を、上司の人がこう評している。「あいつは子どものためなら平気でウソをつく」、と。「ところがそのうち、そのウソが本当になるんだ」。
君は変わる。そう信じる人がいたとき、子どもは実際に変わっていく。「そうか、僕は変われるのか」と感じて。

そして変わり始めた時、その大人が「まさかここまで変わるとは」と驚き、感銘を受けると、子どもは「やった!」と嬉しくなる。もっと驚かせてやろう、と企むようになる。自分の成長で人を驚かすことが、子どもは大好きだから。

私は、もっともっと、自分自身のことを知りたいと考えている。私はこういうとき、どう感じるのか?なぜそう行動してしまうのか?そうしたことを分析すると、あら不思議、自分だけでなく、多くの人が共通の仕組みを持っていることに気がつく。子どもも、大人も、老人も。

では、合理的ではないかもしれないけれど、矛盾した性質かも知れないけれど、こうした場合はこう、ああした場合はああ、という反応を示す生き物であることが分かったなら、その反応をうまく組み合わせて、物事をスムーズに進める方法をデザインしてみたい。そう思うようになった。

ソクラテスは「汝自身を知れ」という、デルフォイの神殿にあった言葉を大切にしたという。「なんで俺ってこういう場面でこんな風に考えてしまうんだろう?反応してしまうんだろう?行動してしまうんだろう?」観察し、仮説を立て、試してみる。その繰り返しが、自分自身を知る行為。

私の子育ての考え方は、そうして生まれてきた。これまでに語られてきた子育て論は、「目のつけどころ」として参考にはするけれど、鵜呑みにはしない。あれ?と思ったら、より注意深く観察し、仮説を立て、別の手法を試してみる。そうして発見したものの一つに、「先回りはよくない」だった。

先回りは、親が子どもに良かれと思ってとる行動。だから善意。でも、人間の心の仕組みを考えると、それは子どもの功績を横取りする行為になってしまう。本当は子どもが自分自身の手で成し遂げたかったことなのに、と。

これまでの子育て論がどう語られてきたか、はいったん脇に置いて、虚心坦懐に現実を観察する。違和感があれば仮説を立てる。そして実際に試してみる。その繰り返しの中で、子育てをしたほうがよいように思う。子育ては哲学(愛智)だと思う、今日この頃。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?