空虚のデザイン

「関係から考えるものの見方」(社会構成主義)の話を連投していたら、大企業などで活動しているコーチングのプロの方々が面白がってくれ、話をすることに。聞きだし方がさすがにプロで、話すうちに私も頭の中がずいぶんと整理された気分。せっかくなのでちょっとまとめておこうと思う。

社会構成主義が重視する「関係性」という言葉、どうも解像度が荒くてわからない、どう思うか、と水を向けられた。お答えしたのが「空虚のデザイン」。私は微生物の研究者だけど、微生物も人間も似た動きをすると考えている。こっちの言うことをちっとも聞いてくれないという意味で。

水もそう。水に丸くなれ、四角くなれと命令してもそうはならない。殴っても蹴っても飛び散るだけで言うことを聞いてくれない。けれど、丸い空虚、四角い空虚をもつ器を用意したら。水は自発的に丸くなり、四角くなる。

人間も同じ。「囲師必闕」という兵法が「孫子」の中にある。これは、城攻めをするときは必ず一か所、手薄な場所を用意して包囲しろ、というもの。すると城兵は「あそこから逃げられるかも」と、手薄な場所(空虚)をめがけて逃げ出す。容易に城を攻め落とすことができるようになる。

微生物も同じ。学生さんによく出すクイズがある。「邪魔な木の切り株がある。これを微生物の力で取り除いて」というもの。多くの学生は、木の成分を分解するのに優れた微生物をぶっかければよい、と回答する。実際、過去にはそうした研究もあるけど、三日もすれば土着微生物に駆逐される。

でもここで、面白い方法がある。切り株の周りに、炭素以外の養分をたっぷり含んだ肥料をまく。すると3カ月もすれば切り株はボロボロに分解する。これは、炭素以外の養分がたっぷりの肥料がたくさん来たことで、土着微生物にしたら「炭素さえそろえばパラダイスなのに」という状態。炭素欠乏症に陥る。

そして、切り株は炭素のカタマリ。すると、土着微生物からしたら「切り株から炭素を切り出せばみんなハッピー」という環境。土着の微生物生態系が、こぞって切り株を分解し、炭素を切り出すために動き出す。ある微生物は切り出し専門家、別の微生物は炭素以外の養分を運んでやる係に分業して。

このように、空虚をデザインすると、こちらの言うことなんか聞きそうにもない、水分子や微生物や人間の群集でさえ、その空虚を満たそうとして動き出す。プラスαではなく「マイナスα」をデザインする。すると、雑多に見える群集でも、空虚を満たす形に動き出す。

では、どうやったら「空虚のデザイン」が可能なのか?と尋ねられた。私が答えたのは、「驚く」こと。相手が能動性を見せた時、「こちらは何も言わないのに、よく能動的に動き出したね!」と驚くと、人はどんどん能動的に動き出す。人間は、驚かすのが大好きだから。

「驚く」の事例として紹介したのが、「公園デビュー」。YouMeさんが赤ちゃんを産んだ頃、この言葉は恐怖の対象だった。赤ちゃんを産んで首がすわるまで、母親は家にこもりきりとなることが多い。で、ようやく公園に赤ちゃん連れて出て行ったとき、そのタイミングでママさんたちの輪に入れないと。

以後、ママさんたちと友達になることもできず、赤ちゃんと二人ぼっちで過ごすことになってしまう。孤立するかどうかの決定的な場面が、「公園デビュー」という言葉に込められていた。
で、YouMeさんが公園デビューする際、私は不安で仕方なかった。ママさんたちの輪にうまく入れるだろうか?と。

ところが、YouMeさんはスルッとお母さんたちと仲良くなってしまった。これが偶然でない証拠に、大阪の見知らぬ公園でもすぐお友達が。いったいどんな魔法を使っているのか?と、YouMeさんを観察してみると。
公園で走る男の子がいたら「わあ、あのお兄ちゃん、足速いねえ!」と赤ちゃんと驚いていた。

雲梯が上手な女の子がいたら、赤ちゃんに語りかける形で「あのお姉ちゃん、雲梯上手だねえ!ぴょん、ぴょん!」と驚いていた。すると、自分のパフォーマンスで驚いている大人の存在に気がついて「ぼく、こんなことできるよ!」「わたしはねえ!」と、どんどんアピール。YouMeさんますます驚いて。

やがて、いつも驚きの声をかけている赤ちゃんの存在に気がついて、「ねえ、その赤ちゃん、おばちゃんの子?」と声をかけてくれる。YouMeさんは「そうなの、一緒に遊んであげてくれる?」と頼むと、子どもたちは「いいよ!」と気持ちよく引き受けてくれる。

よその子の面倒をうちの子が見るなんて珍しい、と不思議に思ったお母さんが近づいてきて、YouMeさんは「赤ちゃんと遊んでくれて、お宅のお子さん、優しいですねえ!」とまた驚いて見せると、そのお母さんも嬉しくなって、地域のお得な情報を教えてくれたりして、それでさらに驚いて。結局仲良く。

人間というのは、自分に驚いてくれる人がいると嬉しくなる生き物らしい。好意を抱く生き物らしい。さらに驚かせようと、さらに工夫を重ねたくなる生き物らしい。だから、人の能動性を引き出そうとするなら、「驚く」とよいと考えている。

そして「驚く」には、こちらを「空虚」にしておく必要がある。もしこちらの心の中に「あれはああすればいいのに、こうすればいいのに」という答えがあると、なかなかそうしようとしない部下や子どもにイライラしてくる。そしてつい教えたくなる。でも教えてしまうと。

「なんだ、教えるくらい詳しいなら僕がやる必要ないじゃないか、自分でやればいいじゃないか」という気持ちになり、部下や子どもは能動性を失ってしまう。指示命令に従うだけの指示待ち人間になってしまう。

「驚く」には、「ああすればいいのに、こうすればいいのに」という思考の枠(思枠)を外しておく必要がある。こちらの心を空虚にする必要がある。そのための方法としては、相手にうまくやることを期待するのではなく、「この人はどんな失敗をするのだろう?」と、その観察を楽しむ思枠を用意する。

すると、うまくやることを期待していないから、あれこれ教える気がなくなる。それでいて、教えもしないのに「それに気がついたか!」と驚かされることになる。驚くと、相手はもっと目の前の現象をよく観察して、その気づきで驚かせようと企むようになる。観察すれば気づきが増え、気づきが増えれば。

どう工夫すればよいのかも自ずと気がつく。すると、こちらは「教えもしないのによく自分で気がつきましたね!」と驚くことになる。すると、今度も驚かせてやろうと、自然と相手は観察し、気づきを増やし、解決方法を探ろうとするようになる。能動的になる。

「教える」という「陽」をやめ、いっそ「いつになったら気がつくかな?それまでの失敗の歴史を観察してやろう」と考えることで、教えたくなる気持ちをなくしてしまう。空虚を心に用意する。すると、「え?それに気がついたの?!」と驚かされる。その驚きが、能動性を生み出す。

驚くための心構え、空虚が、人の能動性を引き出すと考えている。この「空虚のデザイン」は一対一の関係性だけでなく、群集レベルでも有効ではないか、と考えている。そのヒントになるのが、スーザン・ストレンジ「国家の退場」にある。

ストレンジ氏は、「関係的権力」と「構造的権力」という二つの権力を紹介している。関係的権力とは、ボスが恐怖で子分を従わせようとするようなもの。この場合、恐怖を伝えられる人数しか制御できない。支配できる人数に限りが出る。しかし「構造的権力」の方は。

たとえば国だと、「法律を守るなら仕事もできるし、給料ももらえるし、楽しく生活していけますよ、法律を破れば牢屋に入って自由を失いますよ。どちらを選びますか?」と、ルールという形で構造を決め、でもその中でどうふるまうかは各人に任せる。すると不思議なことに。

国民のほとんどが法律という名のルールに従い行動する。ルールという構造が用意した「空虚」を埋めるかのように。この「構造的権力」は、一人一人に細かく命令したり指示したりしない。なのにほぼ全員がその構造の中で行動し、はみ出ようとしなくなる。構造の中の自由を失わないために。

サッカーも構造的権力の一つの姿。「ボールを手で持ってはいけない」という、実に不便なルールがある。「そんな不便なルールなんか、言うこと聞いてやるもんか!」と反発する人も出てきそうなものなのに、不思議とほとんどの人がそのルールに従い、しかも嬉々として足技を磨く。

「手を使えない」という構造をむしろ面白がって、他のスポーツでは起き得ないほど、多彩な足技が開発される。サッカー人口はますます増えていく。不便な構造があっても、その構造の中に十分な自由があれば、人は「制限の中の自由」をどこまで極められるかというゲームを楽しむらしい。

足を使うしかない、という制限が、むしろ「他のスポーツではありえないほどの足技を開発できる無限の可能性がある」ことに気づかせ、その「制限の中にある無限の自由」を満たそうと人は動く。まだ開発されていない足技があるに違いない、という「空虚」を満たそうとして。

ただし、「構造的権力」が機能するのは、その構造の中で自由に動ける空虚が用意されている場合。秦の始皇帝が中華統一したあと、実に細かくルールを定めた。人民はその窮屈なルールを守らなければ生きていけなくなった。しかもちょっと失敗しただけでそのルールを破る結果に。牢獄行きに。

あまりの窮屈さに、全国各地で反乱がおき、秦はあっという間に崩壊した。その次の王朝である漢はその反省もあって、ルールを大雑把に設定した。そのせいか、人々は自由に活動でき、経済が活性化し、前漢後漢あわせて400年もの繁栄を築いた。

人々を活性化させるには、自由に動けるゆとりのある「空虚」を用意する必要がある。そうした構造を用意した場合、人々はその空虚を埋めようと能動的に動き出す。そうした空虚をデザインできれば、組織はその空虚の形に動く、と私は考えている。

中国では、優れたリーダーのことを「大器」と表現する。これは、たくさんの優秀な部下を入れることができる空虚を用意できているから、「器」と呼ぶのだろう。優れたリーダーは、能力的に優れていなくてもいい。むしろ能力は部下の方が優れていたほうがよい。

リーダーは、部下の工夫、発見、挑戦に驚き、面白がる。すると、部下は生き生きと工夫・発見・挑戦を続け、リーダーを驚かし続けようと企む。すると、集団が工夫し、発見し、挑戦を続けるから、全体に活性化する。

劉邦は、部下であった韓信から「将に将たり」と評された。劉邦は、韓信のようなリーダーさえも入れてしまう器、リーダーの中のリーダーだった。たくさんの将軍のパフォーマンスに驚き、面白がった。だから、将軍たちの将軍になることができた。まさに「大器」だった。

「大器」は、きほん、「お前スゲーな!」と驚いていればいい。ただし結果や成果に驚くのではなく、工夫や発見、挑戦に驚く。すると、部下はますます工夫する。新たな発見をしようと観察する。新たなことに挑戦する。リーダーが驚き、面白がってくれるから。

てな話をした。自分の中でもなんだかまとまったので、ここに一応記録しておく。

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