理性が作り上げた形而上学は、無意識の海に浮かぶ小舟

大学生になって哲学を学ぼうとしたとき、「形而上?は?」となった。高校で漢文を習っていたので「而」は「しこうして」と読むのは知っていたけれど、「かたち、しこうして、うえ?何のこと?」となった。形而上とか形而下という言葉は、哲学の基本。でも、私にはしっくりこなかった。

この世には、目に見えて手で触れるものであふれている。こうした形を備えるもの(具象:象(かたち)を具(そな)えるもの)を「形而下」と言い、人間の頭の中で生み出された、考えだとか思いとか、形を持たないものを「形而上」(抽象:象(かたち)から抽出した考え)と呼ぶらしい、というのを理解するのに時間がかかった。

西洋哲学ではこの「形而上」を尊重し、有り難がる伝統がある。これは何も西洋だけでなく、東洋もそういうところがあるらしい。「形而上」という言葉も易経という古典からとった言葉らしいし。
では、なぜ「形而上」を、形あるもの(形而下)より価値のあるものとみなすようになったのか。

たぶんだけど、人間を、あらゆる生き物の中でも最高の生き物(万物の霊長)と考える価値観が下敷きにあるように思う。人間以外の生き物は、形あるもの、この世の触れるもの、目に見えるものだけを認識し、生きているけれど、人間は頭の中でそれらを整理して理解する特殊能力がある、と。

確かに人間はかなり独特な能力を備えているように思う。私はこれまでに犬猫を飼ってきて、必ず実験してみるようにしているのが、犬や猫の実物大の写真を見せること。しかし彼らは何とも思わず、プイとよそをむく。二次元の写真は、自分と同類、あるいは敵だと認識できないらしい。

でも息子の1歳半検診のとき、保健士さんがイラストを見せて「犬はどれ?」と質問すると、息子は迷わずに指さした。まだ幼く、犬や猫に出会ったことがほとんどないにもかかわらず、自宅にある絵本とずいぶんテイストの違う絵であるにもかかわらず、犬猫を判別できた。二次元の絵なのに。

人間は、ありもしないものをあるかのように扱い、その認識を共有できるという奇妙な能力を備える。例えばお金。「サピエンス全史」のハラリ氏によると、お金は「虚構」だという。でも、その虚構を人類のほとんどが共有しているから、実態のあるものとして扱えたりする。不思議なこと。

ただ、私は、その特殊能力があるからこそ自分の首を絞めているのでは?という反省も一方で巻き起こっているように思う。その視点に立つと、「形而上」で考えることができるこの能力こそが、人類を繁栄させるとともに、滅亡の淵へと立たせている元凶にもなっている気がする。

もう一つ、歴史の流れも気になるところ。哲学がこうも「形而上」をありがたがるようになった理由として「アンチ宗教」があったように思う。
西欧は長らくキリスト教会(カソリック)が、現実社会も思想界も支配していた。しかし中世が終わり、旧教(カソリック)と新教(プロテスタント)に分裂。

それまでは僧侶の言うことを信じて生きていけばよかったのに、旧教と新教で、血で血を洗う対決。「自分が正しい、相手が間違ってる」と非難合戦で、宗教に基づいて生きることが難しくなった。そのときに現れたのがデカルト。

神様じゃなくて人間に基づいて哲学を再構築することを提案。この提案はカントやヘーゲルに受け継がれて、壮大な世界観の構築を目指した。このとき、やたらと「形而上」が重んじられることに。それは恐らく、宗教に対抗できる世界観が必要だと考えたからだろう。

それにより、壮麗で壮大な「形而上」の世界観が構築された。キリスト教に代わる「理性教」とも言える。でも、ニーチェなんかは「あー!息が詰まる!」と思ったみたいで、古代ギリシャの、もっとみずみずしい感覚を取り戻したいと思った様子。理性教への反発も育っていた。

理性教に致命傷を与えたと思われるのは、哲学ではなく、心理学。フロイトやユングが「無意識」を発見した。心理学から見ると、理性とも呼ばれる「意識」というのは、無意識という名の海に浮かぶ小舟でしかない。いくら意識が頑張って壮麗な理性教を作り上げても、それは無意識の海に浮かぶ楼閣。

人工知能の研究から、人間の認識はどうなっているのか、が改めて分析されつつある。それを考えると、デカルト、カント、ヘーゲルらが丹精込めて作り上げた「理性教」の体系は、無意識の海に浮かぶ小舟に載せた楼閣でしかない。もちろん、それだけでも大変興味深くはあるのだけど。

実際、理性の力を信じ、壮麗な哲学をカント、ヘーゲルの力で作り上げたはずのドイツで、ナチスが生まれた。そしてユダヤ人虐殺という大事件を起こしてしまった。理性は無意識の海に浮かぶ小舟でしかないことを示す歴史的事件であるように思う。

これからを生きる私達は、
・人類はそんなスゲー崇高な存在ではなく、変わっちゃいるけど自滅もしかねないオッチョコチョイな生き物であること。
・理性は無意識の海に浮かぶ小舟で、かなり頼りないものであること。
の2つの認識をたずさえた上で、物事を考える必要があるように思う。

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