鈴木宣弘氏と山下一仁氏はなぜケンカしているのか

東大教授の鈴木宣弘氏とキャノングローバル戦略研究所の山下一仁氏は真っ向から対立。前者は「日本の農家は補助が少ない」と主張し、後者は「日本農業は保護されすぎ、甘やかされている」と主張。互いに自著で(名指しせずに)相手を非難。
私なりに、お二人の主張を紐解き、言語化してみたい。

実はお二人とも、以下の点で主張は共通。箇条書きにすると、
・日本の農家は所得を補償してくれる補助額が少ない。
・日本農業は関税という価格支持を受けている。
ここはお二人とも異論がない。なのにケンカしている。なぜなのか。
お二人とも、都合の悪いことは口をつぐんでいるからに思われる。

鈴木教授に都合の悪いこととしては、
・もし欧米のように所得補償を行おうとすると、日本の農家は多すぎるし零細だから、所得補償の額がかなり巨額になりかねない。
という点が挙げられるように思う。

山下氏に都合の悪いこととしては、
・関税による価格支持がなくなれば、ごく一部の農家だけが生き残り、大半が生き残れないだろうことに口をつぐんでる
・余った食料は海外に国際価格で輸出すればいいというけれど、それをアメリカが許してくれないという政治の裏には口をつぐんでいる
が挙げられる。

私は、鈴木教授の「国は農家を守るべきだ」という姿勢に共感を覚えるものの、それを実施できるだけの体力が日本に残されているだろうか、という不安を持っている。残念ながら、難しいと感じている。

他方、山下氏の「農家は国に頼るな、自助で行け」というのは、それが可能な農家がいらっしゃることを踏まえたとしても、全体としては日本農業が壊滅的な打撃を受けるだろう、少なくともかなり弱体化するだろうという点を軽視し過ぎているように思えて、もろ手の賛成ができない。

お二人の主張のすれ違いは、こういうことだろう。「日本という国土は不利な条件がそろい過ぎていて、所得補償などの補助がなければ生き残れない」という主張と、「不利だというのは言い訳だ、農家の工夫次第でどうにでもなる」という主張の真っ二つに分かれているということなのだろう。

で、私自身は、お二人とも微妙に違う。日本は貧乏国になり始めているので、農家を所得補償で支え切るのも難しいだろう、と考えている。かといって、日本の農家から保護を一切取り払ったら、山がちな土地であるなどの不利な条件を抱えた日本農業は、かなりのダメージを食らうと考えている。

私はお二人の著書とも読ませてもらい、学ばせてもらっているが、お二人とも、ご主張が極端になっているように思う。現実的な判断をなされているとはちと考えられない。お二人とも主張が強すぎて、データの解釈にもゆがみが出てしまっている気がする。

では私はどんな主張かというと、「主張する前にまずは現実を把握したい」と答えるしかない。鈴木教授も、山下氏も、自分の主張を強調するあまり、自分に有利なデータを過大評価し、不利なデータを過小評価している感じがある。私はまず、虚心坦懐に現実を把握することに努めたい。

養老孟司著「バカの壁」によると、バカの壁はある種の主張ができた時、こうあれかしと願望を抱いた時、その主張や願望に都合の悪い情報には目を閉ざし、耳をふさぎ、都合の良い情報だけを集めることで生まれる、と指摘。ならば、まずは「バカの壁」を取り払う必要がある。

私が「主張」を避けるのは、バカの壁ができることをなるべく避けたいからだ。主張ができると、都合の良い情報にだけ敏感になり、都合の悪い情報には反応できなくなる。これが判断の誤りを招く。判断をなるべく妥当なものにするには、主張を手放さなければならない。

このため、私はお二人の著作から学ばせていただいているが、「主張」についてはスルーさせていただいている。主張をスルーさえすれば、お二人からいろいろ学ぶことができる。あえて小さく評価して軽視しようとしていても、主張を脇に置いて読むからそこも興味深く学び取る。

お二人とも、日本に食糧危機が起きることを恐れる著作を出している。なのにどうやら主張が真っ向から割れているし、解決策も正反対の主張で、実に興味深い。

残念ながら、私はお二人の主張する解決策は、どちらも無理があると考えている。では、無理のない解決策はあるのか?という問いが湧いてくるが、私の現在の認識では「どだい、日本の置かれている現実では無理がある」と考えている。無理のない解決策は、日本にはない、と考えている。

農業を保護することでも解決しない。日本農業から保護を取っ払うという乱暴な策も解決には至らない。単純な解決策はなく、一つ一つの事象を丁寧に観察しては、日本に残された体力でできる範囲の対策をとっていくしかない。体力はないから、できることは「工夫」しかない。

農業を保護する策も、農業から保護を取り去る策も、どちらも「工夫」することをちょっと軽視し過ぎているのではないか、と思う。残念ながら、簡単な解決策は日本に残されていない。その都度、できる範囲の力で、工夫して「マシ」な結果を手繰り寄せるしかない。

子育てと同じだと思う。立派な教育方針を掲げても、日常での子どもとのやり取りは、もっともっと身近な、卑近な、その場その場でなんとかやり過ごしていくしかないことの積み重ね。思うようにならない。これからの日本は、同じような状況になるように思う。

とはいえ、これではあまりにも闇雲すぎていかんと思うので、私なりに提案してみたい。
安易に補助を考えるのも問題。かといって、補助を全部否定するのも極端。ではどうすればよいか、なのだけれど、「枠」(ルール)を作ればよいのではないか、と考えている。

サッカーは「手でボールを持っちゃいけない」というルールを課している。敵を殴ったり蹴ったりしてはいけない、というルールもある。それにより、選手を保護している。しかしルールさえ守っていれば、プレーは自由。プロならプレーをすることで報酬ももらえる。それがサッカー。

鈴木教授の補助に重心を置いた主張は、人によっては「ゴールしていないのに得点を上げる」という過剰保護のサッカーみたいに見えるかもしれない。山下氏の主張は、ワールドカップ優勝チームに小学生チームが挑むのも正当な競争、と主張しているように見えるかもしれない。

私が子どもの頃、公園に行くと、小学校高学年の兄ちゃんが「みんな一緒にキックベースボールをやろう!」と声をかけてくれた。なんと、3歳の子まで参加。幼い子が打席に立つときは、蹴ってから5秒数えて1塁に投げる、というルールにしたりして、全員が楽しめるようにした。

そうしたルールは、保護と言えば保護だろう。しかし全員がそれなりにスリリングな感覚を味わい、もっと活躍しよう、と思えるようにデザインされていた。全員のパフォーマンスをうまく引き上げていたように思う。

私は、こうした子どもの知恵に学んだほうがよい、と考えている。全員を保護するのでもなく、全員を保護から外すのでもない。大切なのは、全員のパフォーマンスをいかに向上させるか、その「構造」を作り出すことだ。

私は微生物学者として、多様な微生物を混合培養しつつ、希望する機能をその微生物群集から引き出す、という研究をしている。環境をさえ整えれば、群集全体がその機能を果たすべく動き出す。それと似たようなことができないか、と考えている。

学生に出すクイズがある。「邪魔な木の切り株がある。これを微生物の力で取り除くには?」
多くの学生は、切り株を分解する力の強い微生物を見つけ出して、それをぶっかける、という案を出す。しかしこの手法はたくさんの研究者が試みて失敗に終わっている。土着の微生物に駆逐され、いなくなる。

しかし面白い方法がある。切り株の周りに肥料をまく。すると、半年もすれば切り株はボロボロになってしまう。土着微生物に分解されて。なぜこんなことが起きるのだろう?

肥料には、炭素以外の成分がすべて含まれている。土着微生物からすれば、「炭素さえあればパラダイスなのに!」という環境。そして、木の切り株は炭素の塊。で、微生物たちは、協力して切り株から炭素を切り出し、炭素を切り出す微生物には、肥料から他の成分を運ぶ微生物が現れ、協力し合う。

肥料を周りに撒くことで、土着微生物からしたら「炭素欠乏」の環境に置かれることになる。その炭素を補うものとして、切り株がクローズアップされる。だから、土着微生物は切り株を分解する。このように、一種の欠乏症状を作り出す手法を、私は「選択陰圧」と呼んでいる。

私は、微生物も人間も、群集として似たような動きをするものだと考えている。孫子には「囲師必闕(いしひっけつ)」という兵法がある。これは城攻めの時、必ず包囲網の一か所を手薄にしろ、というもの。すると城は簡単に落ちる、という。どういうことか。

敵に完全包囲されると、城兵は覚悟を決めて戦う。どうせ死ぬなら徹底的に困らせてやる、と。しかし包囲網の一か所が手薄だと「あそこから逃げられるかも」と弱気になる。そして実際に隙間めがけて逃げ出す。すると簡単に城を落とすことができる。まるで、「ダムにアリの一穴」のよう。

ダムにたたえられた水も、敵に囲まれた城兵も、炭素欠乏に追い込まれた微生物も、「陰圧」に向かって群集は一気に動き出す。そのときの群集のパフォーマンスは実に見事なものとなる。「選択陰圧」は、群集のパフォーマンスを引き上げる一つの手法になり得ると思う。

もう一つの手法が「構造的選択圧」。ボスが恐怖で部下を支配しようとするのは、命令で恐怖を伝染させることができる人数に限られる。こうした権力は「関係性権力」と呼ばれる(スーザン・ストレンジ「国家の退場」)。他方、国家は、命令などせず、ルールを設けるだけ。

まじめに働くなら生きていけますよ、泥棒などルールを破ると牢屋に入りますよ、どちらがいいですか?というルール(構造)を準備するだけ。すると命令しなくても、大多数の国民はルールに沿った行動をとる。これをストレンジ氏は「構造的権力」と呼んでいる。

私が「構造的選択圧」と呼んでいるのは、その構造的権力と同じ。サッカーは「手を使っちゃダメ」という面倒なルールを課している。ならばサッカーをやる人がいなくなるかというと、むしろその不便なルールを楽しんでどんどん参加者が増えている。しかも自発的にルールを守る。楽しいから。

3歳の子供まで楽しめるキックベースボールのルールは、まさに構造的選択圧そのもの。ルール(構造)を適切にデザインすれば、メンバー全員のパフォーマンスを引き出すことができる。こうした「枠」(構造)をデザインすることが、とても重要だと考えている。

しかし適切な「枠」をデザインするには、まず正確に現実を把握する必要がある。観察が重要になる。それをする前に「主張」すると、その主張に引きずられて「枠」のデザインがゆがんでしまう。不適切になる。だからまず、正確に現実を把握したい。

鈴木教授も山下氏も、発信力が強い。けれど、主張もお強い。このために、日本が現状、どんなことになっているのかという現実を把握するのが、ちと難しくなっているように思う。まずは主張を脇に置き、共に現実を把握する作業をやっていただければ嬉しいなあ、と思う。

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