部下が能動的になる関係性

「関係性から考えるものの見方」(社会構成主義)、たぶん第26弾。
最近、「指示待ち人間はまだいい、指示通りにさえ実行できない人間がいて困る」という声や記事を目にするようになった。しかし、必ずしも責任すべてが部下にあるわけではない気がする。

指示通りできない人は、きっと頭が真っ白になっているのだと思う。なぜ真っ白になるかというと、少なからずのケースが、「失敗したらどうしよう、上司に叱られる」という恐怖で頭一杯になり、それで頭がオーバーヒートして、まともに動かなくなってしまっているからではないか。

指示待ち人間もこれに似た状態の、ただし少しマシな状態なのだと思う。指示待ち人間は、自分で考えて実行したら上司に叱られることが多いものだから、指示通りにしか動かないことに決めた状態を指すのだと考えている。結局、上司の叱声が少なからずの原因のように思う。

私も経験があるけれど、上司にジッと作業している様子を見られると、手元の作業より上司の目が気になって仕方ない。「どこか変だろうか?間違っていないだろうか?上司はそれに怒っているんじゃないか?」と気になって、手元より上司の視線の方に意識がフォーカスしてしまう。その結果。

手元がおろそかになり、失敗する確率がグンと高くなる。するとそばにいる上司がすかさず「そうじゃない!こうだよこう!」と注意してくる。「はい!すみません!」と慌てて修正しようとするけれど、上司の視線がもっと気になってしまい、もう手元を見ているようで見えなくなる。余計に失敗重ねる。

またそれを上司が注意する。またパニックに陥る。失敗してまた注意される。悪循環。やがて頭がオーバーヒートし、「どうせ失敗する、そして叱られるのなら、指示されたことだけしよう」と心に決めてしまう。指示通りしたら、「次は何をすればいいですか?」と指示を待つ。上司がイライラしながら指示。

そしてその指示の分だけ進める。また指示を求める。こうして、上司は指示待ち人間化した部下のそばを離れることができなくなる。部下は指示以外のことをしようとしなくなる。上司が、失敗しないかを見張り、失敗したら即座に注意するから、その恐怖で頭が真っ白になってしまうからだろう。

指示通りにできない人間、は、指示待ち人間のさらにひどい症状になった人のような気がする。上司の叱声が怖すぎて、また叱られるという不安が強すぎて、失敗したらどうしようという恐怖で心がいっぱいになって、思考停止になり、指示を理解することさえできなくなっているのではないだろうか。

私はスタッフや学生を指導する際、一連の作業を教え終わったら、そばを離れるようにしている。そばにいたら私の視線が気になって、作業に集中できないだろうと思うから。「じゃ、この作業を10回ほど繰り返してもらえますか。終わったら声をかけてください」と言い残して。

私がいなくなるから、学生やスタッフは、さっきの作業を思い出しながら集中して作業を行うことができる。その過程で、なぜこれをこうするのだろう?という疑問が浮かび、「なるほど、こうする必要があるからか」という答えも見つかったりして、仕組みを理解するゆとりも生まれる。

10回も繰り返すと、手が作業を覚えて、手早く実行できるようになる。しかも仕組みが頭に入っているから、次回同じ作業をお願いしてもすんなり間違えずにその作業を再現できる。確実に技術を習得してもらえる。

上司の目が怖いと、これができない。上司の視線が気になって手元の現象を観察できない。観察できないから仕組みが頭に入らない。上司の言葉と視線しか頭に入らない。そのため、作業を終えても何も覚えていない。頭真っ白、ということが起きやすい。上司は自分が教えたから覚えているけど、部下は何も。

人間の記憶には「能動性」が必要であるらしい。教えた側の上司は、「教える」という能動性が起きたからよく覚えている。しかし上司の監視の下で作業しなければならなかった部下は、上司の目に気をとられ、作業も上司から言われたようにしかできない「受け身」の姿勢となる。これでは記憶に残らない。

でも私のように教えた後、指導者がそばを離れ、10回ほど作業を繰り返す場合は、「さっきはどうやったのだろう?」と能動的に振り返る。「これはどうなっているのだろう?」と能動的に観察する。「こういう仕組みになっていたのか!」と、能動的に理解する。能動性がいかんなく発揮される。

このため、記憶が定着しやすいのだろう。部下を指導する際には、部下がいかに能動的に思考や手を動かしやすい環境を整えるか、を意識する必要がある。部下が上司の視線や言葉に翻弄される「受け身」になってしまっては、学習は成立しない。そしてそんな受け身にしてしまうのは、上司の接し方。

ではなぜ、そうした上司はそんな接し方をしてしまうのだろう?おそらく、部下が能動的に動き、能動的に学ぶなんてことを信じていないのだろう。部下が勝手に動いては困る、勝手な考えをされては困る。自分が考え、自分の思い通りに部下を動かしたい、そう思っているからではないか。

部下はそれを感じ取って、自分で思考することをやめてしまう。もし思考して行動しても「勝手なことをするな!」と叱られるのなら、思考するのをやめてしまおう、となってしまう。徹底して受け身になることで、静かに上司に「復讐」しようとしてしまう。

でも私は思う。人間は能動的な生き物だと。自分から働きたい生き物だし、自発的に学びたい生き物なのだと思う。赤ちゃんや幼児は、恐るべき学習意欲をもつ。動かずにいられないし、誰かの役に立ちたいという思いも強い。人間は生まれもって、能動的な生き物。だって、能動的に動くと楽しいから。

ところが、能動的に動くと注意され、叱られることが増えることで、人間は次第に能動性を喪失していくのだと思う。「宿題やったの?」「勉強しなくていいの?」と先回りされ、言われた通りにしなければバカにされ、叱られる。そうした日々を過ごすうち、能動性を失っていくように思う。

しかし、そうやって能動性をすっかり失ってしまったかに見える大人でさえ、能動的に動いて構わないのだと知った時、生き生きと動き出す。自分で考えて行動し、目の前のことを楽しむようになる。能動的に動いて構わない、という環境、関係性をいかに用意するかが、上司の仕事のように思う。

しかし、「能動的に動く」とは、勝手に動くということではない。私は「問う」ことにしている。「こういう課題があるんですが、これはどう解決すればいいでしょうか?」と問い、一緒に課題解決に向けて考えてもらい、アイディアを出してもらう。もちろん、そう簡単にアイディアは出てこない。

そこで、「まずはいっしょに課題を観察してみましょう。ここはどうなっていますかね?」と、観察することを提案し、着眼点を示しながら、気づいたことを述べてもらう。これを繰り返すと、課題がどんどん明確になっていく。そしてどうすれば解決するのかも、見当がついてくる。

「さあ、だいぶ問題が見えてきたように思いますが、ここがこうなっているのだとしたら、どうしたらいいと思いますか?」と尋ねると、すでにこれまでの観察で仮説が浮かび上がっているので、「こうしたらよいと思います」という妥当な提案が出てくる。私は「確かに!じゃ、やってみてもらえますか?」

スタッフは、自分で観察し、自分で問題を明らかにし、自分で解決策を考えたと感じているから、解決策を実行したらどうなるんだろう、とワクワクしている。すでにやりたくなっている。だから能動的に動く。問いかけに答える中で仕組みがよく分かっているから、臨機応変の応用も可能。

私の問いかけに応じる形で仕事をしているから、勝手なことをしているわけではない。私が課題と考えている課題に真っ向から取り組んでくれるし、しかも議論したとおりに実行しようとしてくれる。スタッフが考えた解決策通りに。でもそれは私が了承した解決策でもある。だから勝手は行われない。

私はああしろこうしろと言うわけではない。問いかけをすることで、スタッフ本人に観察してもらい、課題解決の方法を考えてもらい、互いに了承し合った方法で取り組んでもらっているだけ。私がしたのは問いかけだけで、他はスタッフが能動的に行ったことばかり。

でも、そうして能動的に考え、能動的に自分で解決策を考え出した場合は、自分でやってみたくなる。だから、こちらが何も言わなくても、自発的能動的に取り組んでくれる。しかも楽しそうに。ワクワクしながら。

上司の接し方、関係性で、部下は能動的な生き物に変わる。いや、逆に言えば、能動性をすっかり失い、完璧に受け身な生き物にも変わり得る。部下が能動的でいられるかどうかは、上司との関係性で大きく決まると考えてよいように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?